
原孝一郎『幻想の誕生―イメージと詩の創造』(柏書房 1995年)
詩にも関連はしますが、文学芸術のなかの幻想について考えた本。日本語の著作で、幻想をテーマに、しかも文学と芸術をともに視野に収めるかたちで考究した本は数少ないので、貴重と言えます。著者の立場は、文学芸術の創造の現場にしっかりと足を下し見つめていること、西欧の文学論をプラトンのミメーシス説の変容として捉えていること、それらをもとに幻想を考えていることです。
著者は、まず最初に、幻想的作品は、精神の深層に追放されている古い論理に多くを負っており、普遍的な元型と密接な関係にあることから、短い歴史的時間で区分していく様式史とはなじまないので、幻想的な作品を時系列的に並べ歴史的発展をたどることはしないと前置きしています。本の構成としては、前半に、原理的な考察を行ない、後半に、14世紀の詩『真珠』、ダンテ『神曲』、バラッド、シェークスピア『ハムレット』、コルリッジ『クリスタベル』の具体的な作品を通して、さらに議論を発展させています。
創造の現場の視点では、次のような論点がありました。
①創作者(詩人・芸術家)の役割:創作者は現実に対するとき、それぞれに個性的な心のプリズムをもっていて、心の中で現実を屈折変容し、象徴的に表現する。その場合、創作者は、現実の体験と並行して、文学・芸術の諸作品の体験、自分の見た夢、無意識など、すべてを共時的に創作者自身のうちに取り込む。文学・芸術における幻想は、こうした創作者の創造的想像力と関係づけて考察しなければならないが、近年の幻想文学研究はそうした幻想力の分析を怠ってきた。
②現実を受容するあり方:人が何かを見る時、すでにその対象を選択し意味付けしている。現実という全体の中のある部分にしか人は視線や意識を合わせることができない。創作者の置かれている歴史的位置や、同じ時代に生きたとしても現実に対する意識のもち方の相違により、何を命の通った現実と感じ認識するかは異なってくる。
③芸術表現のあり方:詩の女神の言葉を神がかりの忘我状態で受け取る詩人は、自分でも理解できないまま、物事の本質に触れ、そのため、喚起的イメージや暗示的表現を用いることになる。創造の過程というのは、原始的な認識形態を日常の論理と統合させることに成功したときに成り立つ過程である。例えば、ルドンは、対象物の観察・デッサン、空想力の働く段階、想像力の働く段階という創造のいくつかの段階を経ながら創作していることを告白している。イギリスの自然をそのまま写生したと思われているコンスタブルでさえ、「跳ねる馬」の下絵を調べると、創造的な変更を加えていることが分かる。
西欧の文芸・芸術が、プラトンのミメーシス説から発し、ミメーシス説を変容させながら展開してきたという議論は、は次のようなものです。
①ミメーシス説とは:プラトン哲学の要にある考え方であり、プラトンは、まず最初に永遠な真実であるイデアの世界があり、その写しが現実の森羅万象となって現われていると考えた。例えば、家具職人はイデアの原型に倣い、イデアのイメージ(模像)として家具を現実世界の中に製造する。詩人や画家も、見かけを模倣し、その影を再現・制作するに過ぎないとする。
②ミメーシス説の変遷:アリストテレスは、プラトンの普遍から個別への流れとは逆に、最初に知覚に捉えられた個物があり、われわれの知性によって普遍的な概念が生まれるとした。ロマン主義の時代になると、現実を知性で捉えるのでなく、感情を核に全人的に捉え、それを内奥の心象風景として表現するという方向へ移って行った。例えば、コルリッジは、天才詩人は想像力を働かせて、プラトンのイデアを直接把握できるとし、ミメーシス説は想像力説へと変化した。そして次に、心理学的関心の高まりともあいまって、ミメーシス説は、象徴主義的な変容を遂げることとなる。
③ミメーシス説に対する異論:一方、芸術の根源に自然や現実の模倣があるということをきっぱりと否定したのは、イギリスの古典学者ハリスンで、芸術は祭祀と共通の起源をもっており、それは民衆が、大自然の生命を蘇らせようという強烈な欲求・祈りを集団で行なう表現活動であると主張した。例えば、ドラマはディオニシオス祭の合唱舞踊から発展した儀式に由来しており、信仰の衰退とともに祭式から遊離して劇となり、さらに戯曲家と演者と観客に分離したとする。
④ミメーシス説の発展的理解:抽象芸術や音楽にもミメーシス(現実の模倣)があるとする。抽象芸術は、現実から離れて、基本形態から構成し、知覚にもとづく新しい現実を創造しようとするが、しかし解体された諸要素には、何らかの概念的なもの、感情的なもの、人間的なものが関与していて、創作者が人間として現実世界で培ってきたものが、作品に取り込まれている。音楽についても、音楽家が現実のなかにあって感じる喜怒哀楽、憧れ、夢想、印象などの原初的体験を起点に音楽を創造しているのである。そういう意味で、両者とも模倣芸術と考えることができる。
幻想、想像的幻想力に関する言及としては、他の著者からの引用も含めて、次のようなものがありました。
①幻想という言葉について:幻想文学に関する批評書のタイトルにあるのは、fantasy, fantasticという語で、中世文学やロマン派が好んだ超自然へ開かれたvision(幻視)という語や、現代の都市文化を背景としたdaydream(白昼夢)、dream(夢)、reverie(夢想)、illusion(妄想)、hallucination(幻覚)などの語は使われていない。日本語の幻想という語は、これらすべての語義を部分的ながらも含意する広い意味をもつ。
②幻想文学は、実際の生活では起こり得ないことを物語っている。五感では直接受け止め得ないもの、「見られないもの」と表現されているものを鋭い感受性で受け止め、独特の手法で表現した作品である。読者はある事象を前にして、自然か超自然か当惑し躊躇するが、この当惑は幻想的作品の構造に内在化されているものである。
③文学における幻想はモードであって、ジャンルではない。モードとは、異なる時代の種々の作品の基底にある構造的特色を言う。ミメーシスも、テキスト外部の現実世界と、表現された虚構の世界とは対等であると主張するモードである。幻想というモードからいくつかの関連したジャンルが生じている。