
巽孝之『メタフィクションの思想』(ちくま学芸文庫 2001年)
大昔、まだ中学か高校のころだと思う、筑摩文学大系のローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』をふと手にして(たぶん途中で投げ出した)、それまで小説について抱いていた観念が払拭されたように記憶しています。途中で絵が出てきたり、作者が進行具合について言及したり、何をしても自由なんだと力づけられて、当時、仲間内の同人誌に、今から思えばメタ・フィクション的な構造の作品を寄せたり、文章のなかに歌詞の冒頭につける記号(庵点というらしい)を入れたり、あるいは実験的な詩を創作して遊んでいました。その後、幻想小説の中でも、とりわけボルヘスやコルタサルなど小説内の世界が現実と交わる仕掛けの小説を好んで読んできました。
それがたぶんメタフィクションの仕掛けだと思い、メタフィクションについてや、古典的なメタフィクションの物語としての面白さについて何か知ることができるかと期待して、この本を読んでみました。が、メタフィクションの初心者で、ポストモダン的な動きには疎い私にはとても難しすぎる内容で、大きなズレを感じてしまいました。この本は、古典的なメタフィクション文学についての議論は当然の前提として省略し、1970年代以降アメリカを中心に流行したメタフィクションや、脱構築の思想以後のメタフィクションと現実社会の関係を主として論じています(という風に見えました)。
とにかく、カタカナや人名が多く飛び交い、新しい文学批評の専門用語らしきものが頻出して、落ち着いて読むには、あまりに騒がしい文章、けたたましい文体です。高山宏の語り口にどこか似ているような気もします。読んでない本の話が、当然読者は知ってるねと言わんばかりに出てきて論が進んでいくので、頭に入りませんでしたが、いくつか理解できたことは次のようなものです。
①結局、メタフィクションとは、アンチ・リアリズムのさまざまな変態であること。J・バースがメタフィクション(尽きの文学)と呼び、T・タナーがエントロピーの文学、フェダマンが超小説(サーフィクション)、M・ザヴァーザダーが脱小説(トランスフィクション)として想定した「新しい小説」は、いずれも60年代アメリカというイデオロギーからの「超出」を狙っていたと書かれており(p28)、R・マキャフリイが言うように、「メタフィクション以後の実験はすべて、60年代ラディカリズムゆかりの『反リアリズム指向』にほかならない」(p220)ということらしい。
②ところが、そのリアリズム攻撃自体が制度化され、アンチ・リアリズムという様式が後期資本主義イデオロギーの一表象と化してしまったという。後期資本主義のイデオロギーという言葉遣いがよく分からないが、メタフィクションはそのイデオロギーに取り替わろうと虎視眈々と眼を光らせているそうだ。
③一方で、攻撃対象のリアリズムそのものが変質し、現実社会自体が「リアリティ」を失うようになった。これはアメリカにおいては、ケネディ大統領暗殺やニクソンのウォーターゲート事件で情報操作が行なわれたことにより、真偽・善悪を弁別しえた二項対立が瓦解し、時代と国家そのものが謀略だらけの虚構性で塗りかためられていることが露呈したのが淵源らしい(p24、p70)。
④仮想敵だったリアリティそのものが自壊したというわけだが、この事態をどう乗り切るかに今後のメタフィクションの運命がかかっているとする。その一つの解として、スーザン・ストレールが、「リアリティ自壊というリアリティ」を写し取る「アクチュアリズムの文学」という新たな方向を指し示していることを挙げている(p222)。
書かれていることに逐一口を挿む能力もありませんが、読みながら気がついたことを自分なりに書いてみると次のようなことでしょうか。
①メタフィクションにはさまざまな趣向があるようだが、結局は小説内の出来事はすべてフィクションであること。小説の中で小説を物語る作家が登場したり、先行作品の引用を織り成しながら新たな世界を創造したり、小説の登場人物が歴史上の人物と時空を超えて対話したりなどしたとしても、登場人物も出来事もすべてフィクションなのである。
②一つの枠組のなかにまた枠組ができ、それがいかに重層的になったとしても、また小説の構造がねじくれたり、最後が最初に戻ったり、読者にストーリーの選択がゆだねられようとも、一つの枠組の中の物語、独立した一つの物語は、一つの物語としての実質を持つものであること。それらが組み合わさっているにすぎない。枠組というのは観念的なものである。
③メタフィクションは、文学理論の追求の果てに登場してきたものではないか。メタフィクションの一時的流行現象がとくにアメリカを中心に起こったことについて、アメリカでは大学で小説の創作技術を教える講座がたくさんあると聞くが、こうした文学創作の技術的側面を過剰に意識するところに、メタフィクション隆盛と複雑化の土壌があるように思う。
④そうなると、著者も自ら告白しているように、「高度な解読技術を要請するメタフィクションがますます一握りの文学知識人エリートからなる『支配階級』を再補強しかねない」(p28)という事態となるのでは。メタフィクション文学において、観念的なことが優先され過ぎて、それが過剰になると、物語性が希薄となり、自然が姿を消し、秩序が失われてしまうだろう。もう一度、初心に戻って、現実から少しだけズレ、はみ出した程度に抑えれば、一般読者のわれわれも面白い小説と思えるようになるだろう。
⑤SFにおいて、われわれの「現実」自体がすでにどこかの小説内作家の意識によって脚本化された虚構(フィクション)にすぎないのではないかという視点があったり(p90)、メタフィクションは、現実を模倣するのでなく、現実の虚構性を浮き彫りにしようとするものと言ったりしているが(p92)、なぜこのように現実がフィクションと見まがうようなものになったのか。そこに近代性という問題が横たわっているように思う。なぜなら、原始社会ではそうした視点は取りようがないからだ。
⑥アメリカ国家の謀略性がトランプ登場以来ますます過激になって来ている。トランプ現象がケネディ暗殺事件あたりにルーツがあることが分かったが、結局、アメリカが理念の共和国であり、国王や天皇が居ないこと、歴史や伝統という軸がないことが、相対性を生み出し、真偽善悪が不明瞭になる最大の原因ではないだろうか。
その他、無知蒙昧ゆえ、初めて知ったこともありました。
①ポーが奴隷制肯定論者だったこと。ポーは、伯母の所有する黒人奴隷を売却する際の代理人を勤めたこともあり、ポーが編集に関わっていた「サザン・リテラリー・メッセンジャー」や「ブロードウェイ・ジャーナル」は、南部貴族精神を称揚し奴隷制肯定を推し進めた白人プロモーション機関であったという(p134)。
②アメリカ歴代大統領には愛人がつきものという歴史があり、そのなかでもセンセーショナルなのは、「独立宣言」の起草者のトマス・ジェファソンが、自身のプランテーションで働く黒人女性と愛人関係にあり、子どもも設けていたらしいこと(p190)。