:佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。―パラフィクションの誕生』


佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。―パラフィクションの誕生』(慶應義塾大学出版会 2014年)


 『カター・サリット・サーガラ』『千夜一夜物語』やM・エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』など枠物語に昔から興味があったので、それに関連する本として読んでみました。いろんな例が出てきましたが、ほとんど読んだことのない作品ばかりなので、論旨が的確かどうかまでは判断できませんでしたし、説明を聞いてもよくわからない所もありました。

 ただ、メタフィクションの全貌を、時代を追い、代表的著作や批評に目配りしながら、分かりやすく書いていて、また知らない作品を知ることができて、たいへん有益な読書になったと思います。「視点人物」や「第四の壁」「不気味の谷」などの専門用語も知ることができました。

 論評としては、P・ウォー、巽孝之渡辺直己、M=L・ライアン、東浩紀らの論を切り口にして、作品としては、円城塔「道化師の蝶」、筒井康隆虚人たち」、辻原登「遊動亭円木」、I・カルヴィーノ「冬の夜ひとりの旅人が」、J・バース「キマイラ」、竹本健治匣の中の失楽」、舞城王太郎九十九十九」、F・コルタサル「続いている公園」、藤野香織「爪と目」、円城塔Self-Reference ENGINE」、伊藤計劃/円城塔屍者の帝国」、神林長平「戦闘妖精・雪嵐」などを取り上げながら、論じています。

 書き方はなかなか手慣れた感じでスピード感があり、とくに「プロローグ」は素晴らしく、惹きこまれてしまいました。ただ颯爽としたところは、見方によれば、やや21世紀的せわしなさを持っているとも言え、私ぐらいの年になるともう少しゆったりとした文章を読みたいという気も若干ありましたが。
 
 また期待を抱かせた割には肝心のパラフィクションが一体どんなものかは、プロローグで書かれていたことよりも詳しくは分かりませんでした。著者自身も「『パラフィクション』とは、いまだ全貌を露わにしていない(というか、いつものごとく私自身にもよくわかっていない)パラリアルと呼ばれるであろう何かの、先回りした派生物ということになる。」(p285)と「あとがき」で正直に告白していて、親しみを覚えました。どうやら、問題意識としては、これまでの数々のメタフィクションの試みが、「作者性」への反省、批判、解体を企図しているかに見えて、その実、やればやるほど「作者」の権能と専制を確認し強化することになってしまったのは、作者を中心に発想していたからだという反省から、新しい傾向として、「読むこと」そして「読者」という発想で、ブレークスルーをしようということのようです。


 この本の全体について何か書くのは私の手に余りますので、気のついたいくつかのポイントだけ記してみます。

 まず、もっとも重要なポイントは、現実とフィクションにおける現実認識のあり方には相通ずるものがあるということです。この本でも、「〈リアリティ〉の描出という作業には、常に〈フィクション〉という要素が介在していること、・・・それゆえに〈リアリティ〉は〈フィクション〉に汚染されざるを得ないこと。」(p46)という指摘がありますし、もっと直截には、「中央公論12月号」で養老孟司が「現実・・・もじつは別な物語に過ぎない」(p229)と喝破しているように、現実も言葉や積み上げられた知識、感性が違えば、何ひとつ同じものはないわけです。同じ現実を前にして、幼児と成人と痴呆老人、あるいは異なる宗教信者たち、あるいは敵国どうしは同じものをリアルと認識しているでしょうか。

 フィクションにおいても、いまちょうどデュマの「Histoire merveilleuse de don Bernardo de Zuniga(ベルナルド・ド・ズニガの驚くべき話)」という幽霊譚を読んでいますが、デュマはこの中世スペインの物語を、19世紀フランスに生きている人として書いています。それを21世紀日本の私が読むという形です。デュマも私もおそらくこんな感じじゃないかと思いながら、見聞した限りの知識で中世スペインの世界を頭の中で組み立てながら書いて(読んで)いるわけですが、なぜ書ける(読める)かというと、人間の生活の基本的なこと(衣食住の日常生活、士農工商の営み)や男女間の感情や家族の愛、あるいは神に対する畏敬の念などは万古不易と信じているからです。本当は微妙にずれているのに。だから、デュマは19世紀フランスの、私は21世紀日本の知識と感性で、フィクションの中のリアルを感じているわけです。

 つまり、リアルを感じる仕組みは、言葉や積み上げられた知識、感性によるという点で、現実もフィクションも同じということです。


 もう一つ、江戸戯作においては、作中人物が当のフィクション自体について言及したり、叙述に「作者」が顔を出したりするのが日常茶飯事で、近代になってフィクションのリアル感を醸し出すために坪内逍遥が『当世書生気質』の中で登場人物に「すこし小説めいた説話(はなし)ですが」と言わせているぐらいで、新しく見えるメタフィクション的なものはむしろ江戸がえりだという渡辺直己の指摘(p156)がありました。そこから思いついたのは、フィクションが近代になって、現実が介入してくるような余雑物を排除して物語の虚構を精緻化させて行った過程は、ちょうど音楽の世界で、ベートーヴェンあたりから今のコンサートの形ができあがり、ワグナーあたりで純粋な音楽空間を作っていったのと呼応しているということです。つまり近代芸術は虚構の凝縮を通じていっそうのリアルを作り上げようとしたわけです。メタフィクションはその反動であったわけです。

 メタフィクションからパラフィクションへの移行の契機の一つとして、ゲーム化ということが挙げられているように思います(これは読み違えかも知れない)。ゲームは読者がフィクションの内部にあって物語に参入するかたちを採っていて、その方が感情移入が激しいとの指摘(p139)はその通りだと思いました。まったく別の話になって恐縮ですが、もう一つ小説とゲームの決定的な違いは、結末(ゴール)に辿り着くことが目的かそうでないかにかかっているのではないでしょうか。小説は、過程、過ぎゆく時間を楽しむものだと思います。

 メタフィクションを考えるうえで、もっとも重要な指摘は、メタフィクションの技法が何のために、どのように使われているかで、「ここで注意を払っておくべきなのは、・・・『このような変わった構成はどんな人間的状況を描くのに役立つのか』という問いである。言い換えればそれは『メタ』を手法、趣向の域から主題とその展開の次元に引き上げることを意味している。」(p124)という部分です。

 最後のほうに取り上げられている円城塔伊藤計劃たちの文章には半哲学的な思弁が目立ちますが、こうした思考の産物に対して哲学の専門家は何かコメントしているのでしょうか。彼らの議論は何か生半可な、学生の議論の延長のような感じを受けます。小説に扱うには思弁的に過ぎるような気もします。そうした思弁の果ての結論が、人間的な感情を尊重するというのでは、初めから順番が違うのではないでしょうか。魂、ありがとう、祈り、願い、救いといった表現が結論として出されていますが、これは癒しという言葉に代表されるような新しい世代の感覚でしょう。デジタルで無機質な社会のアンチテーゼでしょうか。我々の子どもの頃は、暴力や差別や男尊女卑に溢れていて、こんな軟な言葉は恥ずかしくて口にできなかったんですが。