:マックス・リュティ『昔話 その美学と人間像』


                                
マックス・リュティ小澤俊夫訳『昔話 その美学と人間像』(岩波書店 1986年)

                                   
 裏表紙の見返しにアシヤ書房のシールが貼ってありました。学生の頃に何回か行ったことがありますが、今はもうない店で、懐かしい。

 リュティの晩年の作で(原書は1975年出版)、それまでの理論を総集成したもののようです。前回読んだ小沢俊夫『世界の民話』第三章で要約されていたのとあわせて、いくつかのリュティの主張をピックアップしてみます(順不同、思いつくままに)。

①昔話の根本テーマは、「欠如→欠如の除去」であるが、これは人生の根本テーマでもある。「課題→その解決」も、「欠如→欠如の除去」の一形態である。そして「禁令」も課題の一種。
②くり返しが、昔話の技法の大きな特徴である。くり返しは宇宙や人生、芸術など万物に及ぶ基本原理である。くり返されるたびに課題はむずかしくなり、冒険は次第に危険になる。
③昔話は単線で語られる。無駄なことは語られない。廻り道があっても、偶然の一致などですべて主人公の幸運につながっていく。通常の小説であれば稚拙と言われるこの技法が昔話の特徴である。
④目的に「やっとのことで」たどり着くことが昔話の美学である。それを際立たせるために「小さな欠損」を生みだしている。
⑤昔話の世界では、美と醜、善と悪、成功と不成功、美しさと死の危険など対極的なものが、極端な形で現われ、多様なヴァリエーションを示しながらをつらぬいている。
⑥昔話と伝説とは違う。昔話の登場人物は図形的で内面がないが、伝説の人物には魂があり苦悩する。
⑦主人公は、支配的な中心的登場人物である。他の登場人物はすべて、これらの主人公との関連のうえで存在している。
⑧超自然的なことが起っても、主人公は驚かない。えぐり取られた眼をはめると前よりもよく見えたとか、現実では起りえないことが平然と描かれる。
⑨残酷なことがさらりと表現される。登場人物は切紙細工で、生きた人間ではない。血は流れていない。
⑩昔話は多くを語らない。例えば美しい物を詳しく描写せず「美しい」とだけ言って聴き手の想像力に委ねる。せいぜい金や銀を比喩に使う程度である。
⑪三人娘のうちの末娘が、幸福を射止める主人公としてクローズアップされる。三人娘のうち長女と次女は同じような振る舞いをする。一見無駄なような次女の役割は、長女の意見が一般的であることを補強するための機能をもっている。
⑫見た目と中身が相反する。援助するのは見てくれの悪いものである。神々は乞食の姿で現れる。
⑬悪者は、あらゆるくわだてをするが、けっきょくは望んだことの逆のことに到達する。昔話で好まれているコントラストの形のひとつは、失敗した模倣という図式である。
⑭モティーフは独立したものとして、人間の想像力や感情のなかに生き残り、新しく別の物語のなかに結合する。


 前回書いた小沢俊夫の講演会を聞いたとき、民話と音楽との関係性を指摘したのは小沢の独創だと思っていましたが、リュティもこの本のなかで「音楽が直接的なものとして出てくるが美しさとしては出てこないこと(p58)」「語り手の声のリズムと旋律性は音楽的要素(p60)」「音楽のフーガの音形のヴァリエーションというばあいには、その裏返しも含めている(p206)」とすでに言及していました。

 ただ小沢俊夫の方が昔話の音楽性には敏感なようです。リュティが、昔話の「物語のテンポの速さ」や「くり返しの多さ」を、かつて高度な文化をもった時代の、優れた芸術家のつくり出したものとしているのに対して、小沢俊夫は、口伝えが本来持っている性質によるものと反論していますが(『世界の民話』p217、p231)、これは昔話が持っている音楽性を指摘しているわけですから。

 リュティの理論で私なりに分かったことは、抽象化された人物が登場し、目的に向って都合のいい超自然的な展開が縦横無尽に繰り広げられる昔話は、反リアリズムの文芸だということです。幻想文学はベースにリアリズムがあってはじめて成り立ちますが、昔話ははじめから超自然にどっぷりとつかっているわけです。そうした点からも、昔話は、文芸ジャンルのなかでは、抽象的な性質があり堅牢な構成をもつ音楽により近いということが言えるのでしょう。