:関敬吾の本二冊

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関敬吾『民話』(岩波新書 1959年)
関敬吾『昔話と笑話』(岩崎美術社 1971年)


 今度は民話の大御所関敬吾の本を二冊読んでみました。これまで「民間説話」「民話」「昔話」についての本をいろいろ読んできましたが、同じ主張があったり、微妙に違うこともあったりで、頭の中で整理がつかなくなってきました。

 とくに今回の『民話』の第一部は学説の紹介が中心で、民話に関するいろんな理論が羅列して出てきて、ますます頭が混乱して来ました。抽象的で分かりにくく、途中で放り出したくなりました。

 頭が混乱してきたのは、いよいよ前期高齢者の仲間入りをする年になったためかと思っていたら、『昔話と笑話』の冒頭「姥棄山考」のなかで、「老人を棄てる時の年齢は伝説では六十歳という地方が多い」という文章を見つけてさらに愕然としてしまいました。


 とにかく、おぼろげに分かったのは、関敬吾のこの二冊の本はどちらかというと、民俗学的な探求に重点を置いていて、物語の形式や構造よりも、物語を語った場や伝播のあり方に興味があるようだということです。何とか頭を整理して、このふたつの本に書かれていて納得したことをいくつか自分なりにまとめますと、
①かつての研究は、昔話のモティーフを分類して比較することや、昔話の形式の解明に重点が置かれていて、昔話の社会的機能を考えることは少なかった。
②ひとつの昔話の起源といったものはない。どこか一カ所で発生したということはない。
③昔話の伝播の通り道は、文化の一般的な道とだいたい一致する。神話・言語・文化・宗教・国境などが物語の拡がるのを抑える要素である。文化の優位なところが文化の未開なところに伝播するという傾向がある。
④昔話の伝播力は我々が考えるよりも強力で、国境や言語の壁をやすやすと乗り越えること。
⑤昔話には、犯した罪の数十倍の刑罰を与えたり、不正直者が奸智を働かせ、泥棒が成功するのを讃えたり、肉体的な不具者を悪魔としたり、児童殺戮やカニバリズム、近親相姦などが平然と描かれるなど、今日のモラルと相反する部分がある。例えば、犯した罪の数十倍の刑罰を与えたりするのは、人物の類型化によって善と悪を際立たせようとするのが原因である。
⑥昔話は、呪術にかかった状態から解放される形式で表現される。ある権力の支配下に入ることも呪術にかかった状態であり、宝物を紛失することは宝物が悪者または泥棒の支配下に入ることだから、宝物を紛失し再獲得するのも同じ過程と見ることができる。また婚姻譚で主人公に課せられる勇気・智力・胆力などの条件も呪術から解放されるために必要な力であり、結末が悲劇に終わる異類婚姻譚は、人間の姿になった動物が呪術にかかった状態から自然に戻るという話である。
⑦トルコ狩猟民族で、森の精霊を喜ばせて獲物を増やす目的で昔話が語られたり、日本でも狩猟の開始時に行われる講で多くの昔話が語られるように、昔話は超自然なものに捧げるものとして話された。
⑧継母の物語は、子どもが成人するにあたっての成女式のような試練を象徴したもの。


 少し印象を訂正しておきますと、『民話』の第一部ではどうなるかと思いましたが、第二部の「伝播」のところでようやく心温まる思いがしました。日本の民話の実態が生き生きとよく伝わってきたからです。

 同じく『民話』(p83)で、日本からアイスランドまで広く分布している「おろか息子の一つ覚え」と呼ばれる笑話が、古くは紀元前三世紀インドの『トリピタカ』にも知られ、中国でも古くから翻訳されていて、二千年の生命をもった物語という説明を読んで、人から人へ脈々と伝えられてきたその時間の厖大さに感動すら覚えました。

 民話の話とは離れますが、トルコおよびその近縁諸民族の間で、霊魂と生命の間の存在のようなオーデムというものが考えられているというのが面白いと思いました。オーデムは死の瞬間に、口や鼻を通って肉体からはなれて、霞のように跡形もなく消え去りますが、その際、なにものかを引き裂くような音がするらしいのです。(『昔話と笑話』p212)

 また東北アジアのユカギール族の間では、猟師に対して同情をもつ動物のみが、彼の弓の的になり、その罠にかかると信じられていたということで、猟師が木を叩くと、栗鼠は木から降りてきて、射たれるまでしゃがんでいたり、猟師のわなの縄を首に巻きつけていたりするそうです。(『昔話と笑話』p241)


 他に、いろいろなことを知ることができました。昔話では聞き手もまた合いの手を入れる風習があったこと、多くの人が同じように繰り返し見る夢から昔話が発生したとする説があったこと、ただ一度話を聞いただけでそれを記憶して語りうる人がいること、「語る」という言葉はもとは仲間に「かたる(加わる)」という意味から来たこと、交通便利な村より山村や島などによい話が多く、教育の高い者より低い人にすぐれた語り手が多いことなど。


 この本を読みながら私なりに考えたこととしては、昔話は、物語のなかでは、直線的に話が運んだり、人物がきわめて類型化されていたり、比喩がなくストレートにものごとを表現して、抽象的な構造をもつものですが、そのように作られた物語全体がじつは一つの喩えとなっているということです。そこがやはり昔話の文学的なところなんでしょう。               

 また、昔話を細かく分類したり、基本型を求めたり、いつどこで生れたかを探求するのに、いったいどんな意味があるのかと思ってしまいました。関敬吾も「発生地を求めることは困難」と言っているように、大昔のことはいくら探求しようとしても労力の無駄になります。それよりもむしろ現在やこれからの昔話的なもののあり方を探求する方が実際的ではないでしょうか。以前書いたように今日昔話の夜語りの役割をしているのはテレビ番組ですし、昔話の文学的側面からいえば、今日のファンタジー、ミステリー、ハードボイルドなどの作家は、いくらか昔話の語り部に相当するようにも思います。ある特定の枠組のなかで創意工夫で味付けしながら、似たような物語をさまざまに展開しているわけですから。