:小沢俊夫『世界の民話』

小沢俊夫『世界の民話―ひとと動物との婚姻譚』(中公新書 1979年)
 
                                  
 先月末に生駒で小沢俊夫の講演会を聞く機会があり、それをきっかけに、読まずに放っておいた民話関連の本を読みだしました。先日の『民間説話』に続いては、その講演者の本です。


 まず、講演会で何が面白かったかを簡単に紹介しますと、「昔話の音楽的性質」という題名のとおりに、昔話の構造が音楽の構造に似ているという点をクローズアップしてお話しされていた点です。昔話には魔力を持ったものとしての楽器は出てくるが音楽そのものや音楽が演奏されている場面はあまりないという話から初めて、
①昔話には「くり返し」がいろんな形で現われているが、音楽の場合も、メロディそのもののなかにくり返しの音型があり、またそのメロディも変奏されながら反復されること。
②昔話の物語は水平的に話が運んで行くことが多く、例えばA→B→C→B→Aと図式化されるような話があるが、これは音楽ではバッハの「音楽の捧げもの」に見られるようなメロディを逆から演奏する反行カノンに似ていること。
③また昔話のストーリーには垂直的展開も見られるが、これも上がる音と下る音の音型はよく出てくること。
④昔話で、天上の世界や地下の世界が地上の世界の写しとして出てくるのは、音楽で言えば転調にあたるのではないか。
⑤話の終わる部分の終わった感は、音楽の終わり方に似ていること。ヨーロッパの昔話はハッピーエンドで音楽の終わり方もいかにも終わった感じがするが、日本の場合は、音階にシとファの音がなく、曲が終わった気がしない終わり方をするのが、昔話の曖昧だったり、悲しかったりする終わり方と呼応していること。
⑥最後に語り手の語りそのものが、リズムに富んで音楽性豊かなものであること。
など指摘されていました。たしかに指摘のとおり、昔話も音楽も、ある一定の時間聴いている人を退屈させないように、工夫するところから、同じような構造を作り上げてきたというところがあるのではないでしょうか。


 この本でも、昔話と音楽の関連についてちらりと言及した部分がありましたが(p231)、この本の主旨はそれとは異なり、民話の背後にある人々の心のあり方、自然観、動物への対し方を、いろんな地域の話を比較しながら探ろうというものです。その方法は、民話に寄り添ってその語り方の細部にこだわって詳細に吟味することによるもので、日本を中心に、ヨーロッパ、韓国、エスキモーなどの人間と動物の結婚をテーマにした民話だけを限定して取りあげ検討しています。


 第一章で、動物の夫の登場する民話、第二章では、動物女房の話が考察されていますが、その解明の結果を簡単に紹介しますと、
①人間が動物に、あるいは動物が人間に変身する場合、ヨーロッパでは神や魔法の力という説明が必ず必要となるが、日本では自然な成り行きとして実現されている。これは、日本の昔話の世界がきわめて自然に近いということである(p51、p76、p108、p127、p133)。
②現在日本で、おとぎ話のイメージのなかに、悪魔やこびと、王子や王女が登場し、魔法による変身があるのは、近代日本がもっぱら西洋文化を受け容れるに熱心であったことの結果であって、ヨーロッパの昔話のイメージにほかならない(p162)。
③日本では、天という本来神聖な観念を好んで日常的レベルにおろして語ったり(p149)、またお姫さんが粟畑にいる夫に「弁当」を持ってくるなど、語り伝えてきた農民たちの姿が強く反映している。これは農民の日常生活の感覚で語るという特質が表われている(p150)。
④配偶者に素性を知られたら別れなければならないというのは、日本では動物、ヨーロッパでは主に妖精である。これはかつて民衆の信仰の対象だったのに対象からはずされた存在であるというところが共通している(p185)。


 他に、面白い指摘がいくつかありました。
①ヨーロッパの昔話では、動物の求婚と思われた一連のストーリーは、じつは動物の自己救済策だった(p36)。
②日本と朝鮮半島の民話には類似が見られ、エスキモーにも近い話があるが、エスキモーの場合は、ほとんど人間が動物として捉えられている(p84、p94)。
③日本に数多くある動物女房の昔話は、お隣の韓国の「龍女」を除いて、外国にはみあたらない(p117)。
④日本人は、助けてもらった鶴が娘になったり鶴になってまた去るその変わり身自体に、鶴の報恩の心の美しさとあわれさ、奥ゆかしさを感じとっているのではないか(p122)。
⑤日本の昔話は比較的短いものが多いと言われるが、それは別れをもって昔話の完結とする日本人の文芸意識と関係があるだろう(p148)。
⑥現代の日本人は、動物や植物の生態には無関心であっても、コンクリートの道路や家や、上下水道、電気、ビニール製品があれば生きていられるような信仰をもっているのではないか(p181)。
など。あと「下唇で川をせきとめる男、・・・ひげの中に羊の群れを飼っている男」(p45)といった表現の奇抜な想像力には啞然としました。


 著者の持ち味は、その地域の人々が昔話のどこに面白さを感じているかに着目していて、それを「文芸的好み」というような言葉で表現しているところにあるように思います。例えば、三輪山伝説を取り上げた際に、「蛇が若者として夜ばいしてきたこと、そうした蛇が針で死ぬこと、そうした蛇の子が桃酒などによっておろされること自体に、おそろしさと同時に文芸的快感と興味を感じてきたのではなかろうか」(p82)と指摘したり、エスキモーの「かにと結婚した女」の話では、「この昔話のドラマは・・・かにであるはずの婿が、人間ともかにともつかぬ姿の、『大きな大きな眼が頭からダラリと垂れ下がった、しわだらけの小男』であること、その意外性にあると考えられる」(p91)、あるいは、中国の「虎女房」で、「人間の女性に変身した不思議な虎が、この瞬間に野生の虎に変質したところに、この中国の昔話の独特な文芸性が感じられる」(p142)とか書いたりしているところ。この「文芸性」という視点から昔話のよりどころを考えようとしているのは好感が持てました。


 この本の第三章「昔話の語り口の秘密」は前二章と独立していて、マックス・リュティの理論を実例に沿って分かりやすく伝えており、原本を読むより簡便で有益だと思いますが、引用していると長くなるので、次回いま読んでいるリュティの本とあわせてご紹介する予定です。