:『藤村文明論集』


十川信介編『藤村文明論集』(岩波文庫 1995年)

                                   
 前回の「藤村のパリ」に続き、藤村本人の文章を読むことにしました。3年間のフランス滞在の報告、北米南米旅行の感想、19世紀以降の日本社会についての考察からなり、藤村の西洋との格闘が浮き彫りになる論集です。藤村の本は、姪との不倫を小説化するという態度が嫌で、これまで何となく敬遠しておりました。

 この本を読んでみて、藤村の真摯な姿勢に共感しました。ここには、「藤村のパリ」にははっきりとは描かれてなかった藤村の思想がうまくまとめられています。日本と西洋の社会や文化の比較、明治維新の位置づけが中心ですが、その後の日本で議論され、今日にも受け継がれている論点がいくつか出ています。

日露戦争以後、世界のなかの日本の位置が高まったが、戦争しか日本の誇るものはないのかと卑下する人たちがいて腹立たしいという趣旨のことを書いている(p19)。ここには、日本が戦争や経済(これも一種の戦争)で世界にアピールしてきたが文化という選択肢に着目すべしという今日的な課題や、日本知識人の自己蔑視的性格の問題の二つが見える。

明治維新は短期間のうちに大きく日本を変えたというが、江戸時代の後半にその準備期間があった(p61)。西洋の技術を学び取り入れたが、日本の中にすでにそれに応じられるだけの力が蓄えられていた(p128)、という江戸時代の延長線上に近代日本があるという視点。これは今やほとんど定説になっているが当時としては斬新だったと思う。

③ヨーロッパは18世紀がその絶頂期であり、フランスがその中心であった。明治維新が見本としたのは産業革命以降のヨーロッパであり、西洋文明の過去の中心であった貴族社会やキリスト教を知らず、またそうした伝統社会の沈滞と堕落も知らず、いきなり19世紀のヨーロッパに直面した、すなわちいきなり近代に直面したという指摘(p257)。これは吉田健一の本で読んだような気がする。

④上記と絡んで、佐久間象山が「東洋は道徳、西洋は芸術(技術)」と言ったりしたのは、明治初期に日本が西洋から取り入れたのが医学、兵学、工学等の技術的な分野だったからであり、宗教、哲学、文学はその後に入って来たので、西洋が物質的で東洋が精神的という風には、簡単には片付けられないという見方(p249)。和魂洋才も同じく。

⑤日本や東洋でなぜ科学が興らなかったのか(p50)という大問題にも取り組もうとしている。藤村の得た仮の答えは、数学などは世界レベルだったが、現実に応用しようという精神に欠けていたということのようだ。問題は科学一般ではなく、ヨーロッパを世界支配へ向かわせるきっかけを作った蒸気機関の発明だけにあるように思うが。

⑥パリでは都市計画が整然と行われていること、世界中から集められた多様な要素も一つの意匠の中に組みこまれて、全体が調和していることに感心しており、さらにそこに芸術監督的な存在がいることを見抜いている(p90)。逆に日本では、隅田川の両岸が新しく西洋から入って来たものに蹂躙されるがままになり、不統一になっていることを嘆いている(p139)。

⑦公園を室内のように使ったり、美術館で美術を楽しむというヨーロッパの公共空間のあり方は日本にはなじまない。日本では、個人の家の一坪の庭を楽しみ、美術も個人蔵の形で味わう(p83)。これは日本の都会生活にほんとうの意味の「社交」というものがない(p98)ことと関係しているように思う。

⑧しかし、藤村は日本の良いところとして、繁殖力の旺盛な草木や虫の多い日本の自然とフランスの乾いた温和な気候とを比べ、日本人は風土によって鍛えられていると感じている(p31)。また日本の道と比較してアメリカの近代的な街路の殺伐さを次のように書いている。「路傍に道祖神なく、馬頭観音なく、一里ごとに塚を築いて榎を植えた跡もなく、まして長途の旅人を慰めるような句塚もない」(p153)。

⑨日本の文芸が、夏目漱石の小説と忠臣蔵の講談というように、高尚なものと大衆的なものとに二分化されていて、フランスのように豊かな中間層が発展していないことを嘆いている(p38)。これは今日にもある純文学と大衆文学の問題。最近では解消されつつあると思うが。

⑩批評にも関心を寄せていて、批評は作者をのびのびと活躍させる方向へ導かなければならないと言っている(p176)。これは批評が作品をより深く味わえるように働かなければ意味がないという考え方と内容は異なるが立場は同じと言えよう。