:山室静『世界のシンデレラ物語』


                                   
山室静『世界のシンデレラ物語』(新潮選書 1979年)


 昔から、洪水伝説や羽衣、浦島の物語等、世界中に同じような話が伝えられているのはとても不思議なことだと興味がありました。この本は、世界のあちこちのシンデレラによく似た話を比較していて面白そうだったので買いました。そのまま長らく置いておいた本です。

 ペロー、グリム、バシレの話から始めて、北欧やスペイン、エジプト、インド、さらには中国、東南アジア、日本の類話を紹介しています。これまでのシンデレラ研究の概要を紹介しながら、東西の物語の比較など、著者の独自の見解を述べています。この本のいいところは、物語の粗筋が詳しく紹介されているので、面白く分かりやすいところです。

 私なんかがシンデレラの物語で面白いと思ったのは、深夜12時に魔法が切れるというところや、残された靴で目当ての女性を探すというところで、その前段の継子いじめは話を盛り上げるための一つの要素にすぎないと感じていましたが、この本では、継子いじめがシンデレラ物語の主眼だとして追いかけているようなところがあり、そもそも出発点が違っているという気もします。

 共感できるところは、ガラスの靴をとり入れたペローの創意工夫を評価しているように、著者が物語の面白さを優先させて考えているところです。山室氏も言っていますが、昔話の専門家には面白さを軸に考察する人が少ないように思います。前回書かずにおきましたが、リュティの論考も、どちらかというと面白さを削ぐようなところがあるように思えました。

 なにせものすごい量の類話が引用されているので、頭が混乱してきました。巻末に20篇まとめられている参考作品を読んで、またそのヴァリエーションの多さに驚愕。著者も本のなかで「紹介してきた材料だけからでも・・・地方型といったものを導き出すことは、必ずしも不可能とは思わなかったが、そこまで鈍い頭をしぼるのも億劫になって止めた。・・・とにかく、かなり長いことシンデレラにつきあってきて、いまは食傷した形なのだ」(p176)と述懐していますが、その素直さには好感が持てます。

 そのたくさんの話のなかで、どの話がいちばん面白かったかというと、巻末参考作品のなかの「リア王の子供たち」(アイルランド)で、山室氏も継子話の最も美しいものと評価されていました。ケルトの神話らしく創造力が豊かで、900年の呪いをかけられた白鳥の悲しさが胸を打ちます。浦島物語の最後の場面のようなところもありました。次に、「十二月の月」(チェコ)で、12人の月の神様が季節感の溢れる魔法を披露するのが印象的。さらには、「二人兄弟」(古代エジプト)「小町娘とあばた娘」(中国)などの輪廻転生モチーフの話でしょうか。

 同じような物語でも、東洋と西洋では、社会的基盤によって話が違っているのが面白いところです。ヨーロッパでは男女が集ってダンスする場がシンデレラ物語では重要な場所になっていますが、東洋ではそういう場所がないので、物語は王子が偶然手に入れた美しい靴をみて、その持主を探すだけの話になっていることや(p67)、西洋のシンデレラは正面切って継母に反抗することこそないが禁止をおし切っても自分で祭や舞踏会に出かけてゆき、自分の願いをつらぬくだけのエゴイズムと積極性をもっていること(p98)などを指摘していました。


 恒例により印象深かった文章を引用します。

フィンランド学派〉系の民俗学的研究では、民間で語られている話の忠実な記録をよしとするところから、この〈ガラスの靴〉のモチーフをはじめ、一般にペローの再話にはあまりに宮廷文化から来た修飾が多いとして、厳密な昔話研究から除外される傾向が生じる/p23

→『民間説話』(上巻p274)では、ペローの作品はむしろ口承に忠実で、ドルノア夫人の作品を文学的と指摘していたが。

〈昔話の自己修正の法則〉と呼ばれるものがあって、ある再話者が意識的にか無意識にか原話に加えた変更ないし逸脱は、次の再話者によってもとに戻されることが多く・・・全体としては原話に大きな変化を来すことのないことが、一般に認められている。/p27

「犬が畑を耕す」話・・・兄はまた真似をするが失敗するというのだ。この話を日本で言えば、兄弟の話ではなく、隣りあった爺さん同士の話になってはいるが、まさしく『花咲爺』・・・『シンデレラ』と『花咲爺』のようなかけはなれた童話の間にも、深いつながりがあるのらしい。/p62

継娘と実の娘の仲がよく、実の娘が母を裏切って継娘を助ける・・・これはヨーロッパのシンデレラにはほとんど見られない日本のシンデレラ話の一特色・・・これはおそらく日本人の心のやさしさから来たものだが、・・・継娘対継母とその娘という敵対関係をやわらげるものであって、物語の展開上からは必ずしもよい結果に導くものではない。/p125

アジアの場合でも、同じような超自然的な事態が起ってはいる。・・・輪廻転生の思想によって、迫害された者が次から次へと他のものに生まれ変わって迫害を避け、また復讐をとげて、最後には幸福に達する・・・日本の話では、助力は微力だし、輪廻転生してでも最後の幸福を摑むという生命の執着も弱く、一般に話が日常的なリアリズムの世界で動いている場合が多い/p170

                                   
 前回書き忘れたことですが、リュティがあげている昔話(メルヒェン)の特徴のなかで、「メルヒェンの語り手たちは・・・すべてがうまくいかなければならないはずだと感じている」(『昔話 その美学と人間像』p123)というのは、ハッピーエンドで終わるハリウッド映画にぴったり当てはまりますし、「やっとのことで」という美学(同書p126)は、ハリウッド映画の危機一髪の美学に他なりません。ディズニーが「白雪姫」や「シンデレラ」などメルヒェンのアニメ映画化が活動の出発点だったこととあわせて考えると、アメリカ映画はメルヒェン的な土壌から生まれたものと言えるのではないでしょうか。