須賀敦子『霧のむこうに住みたい』(河出書房新社 2003年)
これで須賀敦子を読むのはいったん終わりにします。この本は、単行本化されていなかった新聞雑誌への寄稿を、彼女の死後にまとめたもので、イタリア生活の思い出、イタリア各都市の素描、日本の学生時代の思い出、幼かったころの思い出、日本へ戻ってきてからの出来事、ナタリア・ギンズブルグとの交友など、種々雑多な文章がまじっています。それぞれが、新聞、総合誌、文芸誌、出版社の広報誌、企業広報誌など、いろんな媒体に書かれていて、媒体によって文章のトーンが違っているのが面白いところ。
いつも感心することですが、須賀敦子の作品世界はとても豊穣で、次から次へとエピソードが繰り出されてきて、それも例えば志村ふくみの場合はいろんな文章が重複していたのに、須賀敦子の場合は、聞いたことのない初めての話ばかりです。唯一の例外は、この本の「ゲットのことなど」の文章の一部が、『地図のない道』の「その一 ゲットの広場」で描かれているのと同じというぐらいか。
自分の体験を描くのに、これだけの材料を持っている人はそんなに居ないでしょう。しかも彼女の単行本は、一冊のなかに、たくさんの場所、たくさんの時間が入り乱れて錯綜しており、嵌め木細工のように叙述されているのが、魅力になっています。このいくつかの挿話を並行させながら語る手法は、音楽でいえば交響曲のソナタ形式にに似ているような気もします。
前々回、私小説の系譜と、洋風の海外生活ものの系譜が混じり合っていると書きましたが、そうした作品全体で一種の須賀敦子サーガを形成しているようにも見えます。もし時間があり余っている若いころだったら、須賀敦子の作品の全体を時間軸に沿って組みなおして一つの大長編にするとともに、場所別登場人物別年表を作成してみたいと思うぐらいです。しかしそんなことをすれば、パッチワークのような彼女の作品の魅力を台無しにしてしまうことになってしまうでしょう。
この本のなかでも、彼女の創作の秘密に触れるような文章がありました。「となりの町の山車のように」のなかでの次のような言葉。「『線路に沿ってつなげる』という縦糸は、それ自体、ものがたる人間にとって不可欠だ。だが同時に、それだけでは、いい物語は成立しない。いろいろ異質な要素を、となり町の山車のようにそのなかに招きいれて物語を人間化しなければならない。ヒトを引合いにもってこなくてはならない。脱線というのではなくて、縦糸の論理を、具体性、あるいは人間の世界という横糸につなげることが大切なのだ」(p121)。
蛇足ですが、この本の出版は河出書房新社で、それまで一切須賀敦子の作品を出版していないのに、この本の元となったらしき「須賀敦子全集」をちゃっかり出しているのはどういうわけでしょうか。