須賀敦子の二冊

  
須賀敦子ヴェネツィアの宿』(文春文庫 1999年)
須賀敦子トリエステの坂道』(みすず書房 1998年)


 須賀敦子を続けて読んでいます。前回は比較的初期の作品として、『イタリアの詩人たち』(1977~79)と『コルシア書店の仲間たち』(92)を取りあげました。『ミラノ霧の風景』(85~89)と『ユルスナールの靴』(96)は既に読んでいるので、現在手元にある『ヴィネツィアの宿』(92~93)、『トリエステの坂道』(90~95)、『地図にない道』(94、96)、『時のかけらたち』(96~97)、『霧のむこうに住みたい』(68~97)を順に読んでいきたいと思います(括弧内は執筆年)。

 今回の二冊は、須賀敦子らしい純度の高い作品ぞろいです。ともにタイトルがミスリードを誘うようなつけられ方で、『ヴェネツィアの宿』は、ヴェネツィアが舞台の作品かと思いきや、全12作品のうち、最初の1篇だけであとは、日本での父母の思い出と、留学生活のエピソードが交互に出てくる形となっていて(ヴェネツィアが全面的にテーマとして出てくるのはむしろ『地図にない道』)、『トリエステの坂道』も、トリエステが舞台かと思いきや、冒頭の1篇と途中ちらっと出て来るだけで、ほとんどが、ミラノとフォルガリアという山村を舞台にした夫ペッピーノの家族の思い出が中心。

 須賀敦子作品を読んでいて、いつも思うのは、数十年前の話でもよく覚えているということです。たぶん、当時から日記とかノートをつけていたに違いありません。例えば、「テレーズは…つと横を向くと、そのままじっと、暗い木陰に立ちつくしていた。修道衣の喉をおおう白い布だけが、夕方の光のなかでぼんやりと明るかった」(『ヴェネツィアの宿』p106)、「ジェラの山あいの町ドールを出発したのが昼ちかい時間で、まっすぐディジョンに降りたのだったが、食事をしただけでもう三時をまわってしまった」(同p132)など、とても思い出せるものではありません。私も試みに、大学時代の友人について思い出そうとしましたが、大まかな印象しかなく、具体的な事柄は項目程度しか思い出せませんでした。それともこれらはまったくの創作なのでしょうか。


 『ヴェネツィアの宿』では、須賀敦子の家族の思い出を語った章として、父の愛人の突然の登場が衝撃的な「ヴェネツィアの宿」、戦争で岡本から小野に移った母方の伯母夫婦を懐かしむ「夏のおわり」、「ヴェネツィアの宿」の続篇ともいうべき「夜半のうた声」、そして武家の家系に生まれ商家に嫁ぎ苦労した母を回顧する「旅のむこう」と、死の床に居る父の希望を叶えて喜ばせようと奮闘する「オリエント・エクスプレス」があり、

 一方、学校時代、留学時代のことが、聖心女子学院のシスターや院長の思い出を綴った「寄宿学校」、ローマのカトリック学生寮とフランス修道会寄宿学校が舞台の「カラが咲く庭」、最初の留学時のシャルトルへの巡礼記「大聖堂まで」、パリで大学の寮で同室だったドイツ女性についての「カティアが歩いた道」で語られ、

 その後の海外生活を回顧した作品として、15年の時を隔てフィレンツェで偶然再会したミラノ時代の友人の境遇の変化に驚く「レーニ街の家」と、急死することになる夫ペッピーノの死の翳を感じとる「アスフォデロの野をわたって」があり、上記のどの範疇にも入らないものに、ミラノ女性のイベント企画に翻弄される純朴な京都女性の話「白い方丈」があります。

 『ヴェネツィアの宿』全体につらぬかれているのは、著者の体験を通して、どの人間も持っているようなややエキセントリックな面が描かれていることで、それが狂気を帯びている場合もあれば、たんに個性的な姿にとどまっている場合もあるといった感じです。ひとことで言えば、日本伝統の私小説の系譜に連なるものがあるように思います。それが、一方で、永井荷風から辻邦生堀江敏幸にいたる洋風の海外生活ものの一種明るく知的な雰囲気と交じり合ったところに、独特の世界が生み出されているのではないでしょうか。


 『トリエステの坂道』は12の作品からなり、『コルシア書店の仲間たち』では章を設けられていなかった夫ペッピーノの家族にまつわる話が中心。冒頭の「トリエステの坂道」は、『イタリアの詩人たち』でも取り上げられていた詩人サバのふるさと訪問記で、トリエステについては、他に「ヒヤシンスの記憶」で、やはりトリエステの詩人ジョッティに触れられていただけです。

 それ以外は、むしろミラノが中心で、5年半夫と暮らしたミラノの電車道の思い出を語る「電車道」、夫の実家の鉄道官舎に住んでいたブシェーメ一家とその末っ子トーニを回顧する「雨のなかを走る男たち」、義弟のアルドが結婚して義母の居場所が消える「キッチンが変わった日」、鉄道員だった義父の人生に触れた「ガードのむこう側」、鉄道官舎の庭で菜園をしていた義母との交流を思い出す「セレネッラの咲くころ」、義弟アルドの家族を描いた「息子の入隊」、ミラノから1時間ほどの農村に住む義母の姉マーリおばさん一家の話「マリアの結婚」があり、

 義弟アルドの妻の実家があるイタリア北部の山村フォルガリア村が舞台になっているのは、アルドの妻の父親への敬愛が感じられる「重い山仕事のあとみたいに」、義弟アルドがそのフォルガリア村に移住してしまう「あたらしい家」の2篇、 それ以外に、唯一ローマが舞台になっていたのは、ナタリア・ギンズブルグとの最後の面談を描いた「ふるえる手」。

 この「ふるえる手」の文中で、後に翻訳することになるナタリア・ギンズブルグの『ある家族の対話』を読んで、それまで文章を書くときにもやもやしていたものがすっとほどけたと告白しています。ギンズブルグによって須賀敦子が開眼し、あの独特の世界が誕生したということでしょう。そのギンズブルグと、ある人の仲介で会うことになったいきさつが語られていました。

 この本では、イタリアの都市部の下町的なところに住んだり、町から遠く離れた農村で暮らす庶民への愛情に溢れたまなざしが感じられ、人々の振舞いが生き生きと描かれています。電車でよく鉢合わせた病院付き司祭でクロアチア人のルドヴィーコさん、雨のなか背広の襟もとをしっかり握って走り去ったブシェーメ家の末っ子トーニ、娼婦たちのへそくりを預かっていた義父のルイージ氏、口数は少ないが密造酒のグラッパをこっそりくれたりするアルドの妻の父親グロブレクナー氏ら、読んでいて、私も彼らと同じ生活空間に居るような親しみを感じました。


 須賀敦子の作品に共通する性格は、ほとんどが遠い昔を回想するというかたちを取っていることでしょう。もともと戦争の時期を経ているので、兄弟や親戚に早く亡くなる人が多いうえに、数十年前の人たちのことですから、次々にこの世から去り、その死が文末で語られることになります。どの作品も静謐な雰囲気に包まれているのは、そうした死の悲しみに彩られているからではないでしょうか。