:松村みね子関連2冊

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フィオナ・マクラオド松村みね子訳『かなしき女王―ケルト幻想作品集』(沖積舎 1989年)
片山廣子『新編 燈火節』(月曜社 2007年)


 松村みね子の名前は大昔『愛蘭土戯曲集』でダンセイニを訳している人というので知っていましたが、何年か前、新聞の書評かなにかでその松村みね子が本名は片山廣子歌人でもあったことを知り、またそこに引用されていた文章がとても魅力的だったことから興味が涌いた頃合に、たまたま上記マクラオドの訳本を古本屋で入手しておりました。

 今回、オークションで『片山廣子 孤高の歌人』を見つけ入札に失敗したことから、ネットで上記随筆集を見つけ購入し、これをきっかけに、両方一緒に読んでみました。


 『かなしき女王』は、ケルト神話をもとにしたファンタジーの短編集です。ストーリーは非現実的で、残酷な場面もところどころあります。部族間の戦さや王の継承、親子の愛、男女の愛の話のなかに、神々への畏敬や信仰が通奏低音のように響いています。

 文章はどれを取っても美しく、全編を通して海辺や森の自然と色彩や光に満ち、詩的な味わいが溢れています。「歌人片山廣子が持つ日本的抒情性と歌人としての美文の表現の素質が滅びゆく『幻の民』の哀感と響きあって幽遠な世界をつくって(p278)」いると、解説で井村君江が書いていますが、まさにそのとおりと言えます。

 作品としては、
◎「琴」
○「女王スカァアの笑ひ」「髪あかきダフウト」「精」「約束」「浅瀬に洗ふ女」「剣のうた」「かなしき女王」
がとくに良かったと思います。

「精」では、作品の醸し出す雰囲気や作中の聖霊の宿る樹が映画「アヴァター」を連想させられました。また全体を貫く精神には、先日読んだ「グリーンマン」と通じるところがあるように思います。


 拙い感想はこれくらいにして、いくつか文章を引用しておきます。どこを取ってもすばらしいですが、代表として。

海のうつくしい潮の香がコラムの鼻に入つた、彼は體ぢゆうの血管に波が走るのを聞いた。/p11

やがてムルタックの聲が天からきこえて来た、やさしくやさしく。その聲は蜜のやうに優しかつた、そして栄光の深い惶れに包まれてゐた。/p12

頭に近い邊は金を射出す土の色の茶色、中ほどは火焔のやうな赤さ、火の色の黄金の霧に散らばる髪の末の方は風ふく日の陽の光のやうに黄いろかつた。/p26

美の藭マツクグリナは彼女のために照り輝く玻璃の室を造つてやつた、その中で彼女は夢のなかに生きてゐた、その光の部屋で、あかつきには花の色で、たそがれには花の香で養はれてゐた。/p28

ふいと見た夢のやうに私は幾度もそれを思ひ出す。私はその思ひ出の来る心の青い谿そこを幾度となくのぞき見してみる、まばたきにも、虹のひかりにも、その思ひ出は消えてしまふ。・・・それは、晝のなかに没するあけぼのの色のやうに、朝日に消える星のやうに、おちる露のやうに、消えてしまふ。/p39

水泡のやうにしろい美しさのためには「白き女王」とも呼ばれ、赤い髪の毛が解きほどかれた時、白い岩の絶壁をながれ落ちる血しほの瀧とも見えたから「赤い女王」とも呼ばれた。/p58

子のうまれる前三日といふもの不思議な聲が海の深みからきこえた。ながくあとを引く波のくぼみには昔の死者の姿も見えた。月光にとぶ波の飛沫は白衣と變つて、その中から輝く眼が、静かにいかめしく、あるひは恐怖の豫知に満されて、おそれ顫へてゐる水夫たちを眺めてゐた。/p61

人間のたましひも終りがいよいよ近くなつた時それを知らずにはゐないだらう。・・・あらゆる前兆がただ空想であると誰に言ひ切れよう、路上に飛んでゆく藁くづはただ飛ぶ藁くづである、それでも、その藁が見えなくなる前に、風が人の頬にあたる。/p92

女の眼の光は月の火のやうにふしぎに輝いてゐた。きやしやな體はうす青いみどりで、木の葉のやうにつややかで、つち色した茶色のやはらかい髪は肩からたれ下がつてふくらんだ胸の上まで落ちてゐた。/p149

女は宵の明星(ほし)の光をませた月の輝きのやうに白く美しかつた。髪は長い温かい午後の日の影のやうに濃く柔らかであつた。眼はかはせみの羽よりももつと濃い青色で、眼のなかの光は草の花にかかつてゐる露のやうであつた。手は真白で、その手で小さい金の琴を弾くと、それが月光のなかの海の波の泡のやうだつた。/p177

母はみがいた鋼の鏡を眠つてゐる娘の口の上にあてて見た、愛の炎が赤い心を焼いて、その心の上に白熱に書かれた文字は―我はコノールの子コルマツクの心―とあつた。/p187


 『新編 燈火節』の謙虚で優しい語り口は、多田智満子、須賀敦子村松嘉津らの女流文人の筆を思わせます。結婚してのち、夫と息子を亡くし、アイルランド文学からも身を遠ざけ、戦災を経て生活もともしく(彼女の表現)なってゆくなかで、自らを慰め身辺の思い出を留めるために書いていたもののようです。

 アイルランド文学や伝説、日本の短歌について書かれたものが四分の一ぐらいでしょうか、それ以外は自分の住んでいた土地や昔の風習の思い出、食べ物や、動物たち、花や木の話などで、等身大の日常の世界が描かれています。本人の思いとは別に、日本のある時期の女性の感性や生活のすばらしい記録となっています。年代は違いますがどこか立ち居振る舞いに私の母親の面影もよぎります。

 私がしばらく勤めていた溜池から山王にかけての昔の風景や、自転車でよく散歩した浜田山の様子が出て来て懐かしく思いました。

 女性に生まれてきたために文学の道を断念したことへの後悔や諦念といったことは、直接的にはまったく語られていませんが、どこかそういった感じを受けるのは、野口米次郎や上田敏から高い評価を受け、若き芥川龍之介堀辰雄室生犀星らから崇拝されたという彼女の華麗な文学デビューを知ったための考えすぎでしょうか。

 つぎは何とか片山廣子の短歌に関する本や『片山廣子 孤高の歌人』を探すことにしましょう。
最後に彼女の短歌を一首

秋の風あかつき吹けば我が魂も/白き羽負ひ遠き世に行く/(『かなしき女王』p281)