:篠原資明『心にひびく短詩の世界』


篠原資明『心にひびく短詩の世界』(講談社現代新書 1996年)


 以前から短詩に興味がありましたが、俳句や短歌の本はたくさん出ていても、短詩に関してまとまった本があまり見当たりませんでした。この本は広く日本の詩人の作品のなかから短詩を拾い出して、その魅力を語ったもの。著者自らは説明はしていませんが、この場合の短詩は、短詩型文学の中で俳句や短歌、和歌、俗謡を除いたもので、取り上げられている詩人たちは、北原白秋以降の近代詩人36人。口語自由詩が中心。

 しかし短詩という形は、どうしても短歌や俳句と近接してしまうもののようです。この本に引用されている宗左近「空炎える 地より天への大瀑布」(p172)は明らかに俳句ですし、北原白秋が「短唱」と称している「潤いあれよ真珠玉幽かに煙れわがいのち」(p23)は七五調和歌に近いものだし、立原道造の四行詩「長いまつげのかげ/をんなは泣いてゐた/影法師のやうな/汽笛は とほく」は口語自由律短歌、一行詩「町にピアノが沈んでゐる」は自由律俳句とも言えると思います。

 いいと思った詩人とその作品は、萩原朔太郎静物」、室生犀星「朝日をよめる歌」、安西冬衛「春」、吉田一穂「泥」「母」稲垣足穂「黒猫のしっぽを切った話」「1 笑」「詩をつくる李白」、高橋新吉「るす」、北園克衛「驟雨」、天野忠「花」「埋骨」、宗左近「曼殊沙華」「序詞」「終詞」。


 短詩は引用もしやすいので、幾篇か例をあげておきます。
朝日がおとづれるときに/何処か遠いところで/眩ゆいばかりの重い書物の一頁が/そよかぜのやうに音もなく開かれて行く(室生犀星「朝日をよめる歌」その十)/p39
さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました(宮沢賢治「報告」)/p81
留守と言へ/こゝには誰も居らぬと言へ/五億年経つたら帰つて来る(高橋新吉「るす」)/p130
ガラスが何枚も重なりその光の溝から白紙になった音が逃げていく/あれは誰だろう あの線のように走っていくけだものは。(天野忠「花」)/p160
こころのなかに/肉体がない/ように/わたしのなかに/こころがない/そうして//ないこころのために/わたしが立っている(宗左近「序詞」)/p177


 この本を読んでいて、自分なりに、短詩の魅力について考えてみました。作品として成り立たせるためには何種類かのポイントがあるように思います。
①ひとつは、エスプリの煌めき、洒落た思いつき、言葉を変えれば一種のオチがあること。読んでいてハッと腑に落ちる瞬間があることです。
②もうひとつは、それと似たようなことかもしれませんが、謎めいたロジック、禅的な境地があること。読後に謎が余韻として残るような作品。
③あるいはまた、イメージの喚起力があること。ありありとその情景が浮かぶような言葉遣い。
④さらには、意表を突く言葉の使用。正反対のイメージが同居するなど、予想外の言葉・情景の組み合わせがあること。
⑤また、一息の魅力。ため息がこぼれるような詠嘆、あるいは断言肯定命令のような鋭い口調。
結局、これらに共通するのは、短い詩のなかに、いかに広がりを作り出すかということに尽きるように思います。