:FRANZ HELLENS『FANTÔMES VIVANTS』(ALBIN MICHEL 1955年)(フランツ・エランス『幽霊のような人々』)


 1945年が初版で、この本は第2版。六篇の短編が収められており、うち四つが戦前の作品、二つは第2版で付け加えられたもののようです。


 「FANTÔME(幽霊)」という言葉があったので幽霊が出てくるのかと思ったら、少しはそれらしいのが出ますが、ほとんどは幽霊のような人物、常軌を逸した奇矯な人や影の薄い人が出てくる話でした。著者も前書きに書いているように、感受性のありあまる人物に焦点があてられています。なので日本語の題名は直訳すると「生きている幽霊」ですが、「幽霊のような人々」のほうがよいと思います。

 したがって、展開の単純な怪奇ストーリーとは違って、純文学的な濃い味わいがあります。つまり感情や精神を微妙に描く曖昧で抽象的な表現に富んでいます。はっきり言うと私の語学力ではとても分かりにくい文章でした。

 病的な芸術家や本好きの奇人が主人公だったり、感受性の鋭すぎる若者や、認知症風の老人が登場したり、さらに進んで動物と人間の合いの子のような畸形人物(私の読み違えかも知れません)まで出てきます。実際に幽霊が登場するのは二篇のみです。


 シュネーデルの『フランス幻想文学史』には、「エランスの幻想的現実は超自然的というわけではない。それはわれわれに目に見えるもののもうひとつの顔を示し、心と精神の暗闇に光をあててくれる」というマルセル・ブリオンの言葉が引用されています(p555)が、まさにそのとおりだと思います。

 奇怪な人物が出てくる小説は私の好むところで、ホフマンやドストエフスキーの登場人物からは昔から目が離せませんでした。本当は、どの小説にもまともな人物はあまり出てこないとも言えますが、とくにロマン派小説には奇怪さの溢れる魅力的な登場人物が多いことは事実です。また怪奇短編にも奇妙な人物が出てくるのが結構あります。私にもう少し能力(記憶力も含めて)があれば、奇怪人物アンソロジーでも編むところですが。


 各短編の紹介を下記に(ネタバレ注意)
Ma jeunesse et moi(青春と私)
感受性豊かでおどおどした詩を書く青年が奇矯な人物として登場する。中年の主人公がその男を見て、自分の若い頃とそっくりなことから、自分なら夢中になったと思われる飲み屋の女を紹介したところ案の定おかしくなり、婚約者との間にヒビを入れてしまう。分身譚の味付けもされている。ひと言ふた言しか喋ったことのない青年が突如堰を切ったように冗舌になる場面は圧巻。また終わり方がいかにもフランスらしい曖昧さを残す。


Le père et la fille(父と娘)
これも怪異は起らない。芸術家小説。この作品でも奇矯な親子と家族が登場する。恵まれた絵の才能を持ちながらどうしても顔がデッサンできないという症状が親子二代にわたって受け継がれる。画家が娘の後をつけていくと語り手である友人の家の方へ行くのに気づいた時の驚きは秀逸。


La femme et l’homme(妻と夫)
薄明境に入った老人が奇妙な存在として描かれる。年老いた亭主が毎朝「指示をもらいに」と言って外へ出て行こうとするのを妻は無理に止めず送り出している。亭主は終日カフェで過ごしている。ボケが夢や幻想と混ざり合い、どれが現実でどれが幻か分からない幽明境を彷徨う感じがよく描けている。最後は亭主の死を暗示して終わる。


◎Le solitaire(孤独)
幽霊らしきものが一瞬登場するが眼目はやはり奇人譚。語り手は図書館でいつも同じ席に座っている奇妙な男が気になる。一言も発したことがないその男は痩せ細りおびえた野生動物のようでいつも同じよれよれの服を着ている。留守を見計らって下宿を訪ねると下宿の女主人もその男のことを心配していろいろと世話を焼いていることが分かる。何年かして、その男を再び見たことがきっかけで下宿を訪ねると、三年前に事故にあって死んでいたことが分かる。死んでからもなおそこにいるかのような存在と下宿の女主人は涙ながらに語るのだった。男の存在感が凄い。


Ce lourd silence de pierre(石の重い沈黙)
過去からと未来からの二つの幽霊が現れる幽霊譚であり奇人芸術家小説でもある。いつもどこか遠くを見ているような彫刻家が登場する。その友人が、彫刻家の死後35年、美術館に残された自画彫像を見に行ったところ彫像が語りかけてくる。その夜また彫刻家の幽霊が現れ自分の墜落死の予兆について話しかけてくる。その幽霊は実は彫刻家の孫で、何日か後アトリエのベランダから本当に落ちて死んでしまった。


○L’homme-grenouille(蛙男→辞書を引くと「潜水夫」とあるが話の流れから行くとどうしても蛙男)
いよいよ奇人小説から畸形小説の領域へ踏み込んだ感がある。語り手が蛙男の被り物をしたサンドイッチマンと食事をする話だが、蛙のお面をはずした後もその男は蛙なのだった。語り手の幼い頃の蛙の思い出と絡み合って不思議な世界が描き出される。グロテスクな顔と小さな可愛らしい手が印象的。この蛙男がいったい蛙なのか人間なのか最後までよく分からなかった。