:S・トンプソン『民間説話』


                                   
S・トンプソン荒木博之/石原綏代訳『民間説話―理論と展開』(現代教養文庫 1977年)

                                   
 1月下旬に生駒で民話研究者小澤俊夫の講演会を聞いたのがきっかけで民話に関した本を読んでみました。上下二巻、各冊400頁の分厚い本で、なかなか読みごたえがありました。序文にあたる第一部で、説話を概観した後、第二部、第三部で、世界に分布する説話、伝説、神話、笑話を類型別モチーフ別に解説し、その後、第四部の前半において、グリム以来の説話研究の系譜をたどり、説話研究者たちが国際的にどう協力し合い、説話の分類法をどのように作っていったかについて語っています。

 さらに第四部後半では、説話はどのように伝播し変化していったかなど、説話の比較研究の成果が紹介され、最後に、生きた芸術として、パフォーマンスとしての説話の研究へ一歩踏み入れたところで終わっています。驚くべき視野の広さをもった、まさに古典的名著といわれるにふさわしい書物です。惜しむらくは、説話の宝庫である中国、それにもっとも近しい日本に関する説話がほとんど取り上げられていなかったところ。日本については訳者が少し補足してはいましたが。


 いろんな興味深い指摘がありました。
①現代の小説家が独創性を競うのに対して、説話の語り手は正統な典拠を伝えていることを誇るということ。/上巻p23
②ある土地で真実と思われている伝説が別の土地、別の人物へ移されると、フィクションとなること。/上巻p385
③説話が伝えられるときに変化を被る原理―重要でない細かい点は忘れられること、別の話から借用したり創作したりして新しい要素が加わること、二つあるいはそれ以上の話が結びつくこと、モチーフの繰り返し、一箇所を変えると話のつじつまをあわすために他の箇所も変えること、気候など新しい環境に適応すること、など(アアルネの説)。/下巻p256〜257
④しかし、構成要素がたえず置き換えられたりしているにもかかわらず話の本質的な筋道は安定していること。話者の記憶違いによる変化がもし聞き手に評判がよければ原型の要素にとって代わること(アンダーソンの説)。/下巻p259
⑤説話は一番重要な部分から始まらないし、急転直下結末を迎えることもないこと。通常一場面に同時に登場する人物は二人だけで、それ以上登場したとしても同時に行為しているのは二人だけであること。英雄と悪役、善玉と悪玉など対照的な人物が出てくること。ある集団のなかのもっとも弱い者が後には最良の者となること。人物設定は単純で物語に直接影響を及ぼす性格のみが描かれること、など(オルリックの説)。/下巻p299


 トンプソンの書いていることでもありますが、この本を読んで私なりに整理してみると、説話の興味のキーとなるのは、知恵 (難題のなぞ解き、知恵者と愚か者)や魔法(呪力、薬、動物の言葉、変身)、人生の運命(王権、結婚、死)などで、説話の語り口としては、リアリズムではない抽象的記号的な語り口(あっさりと片手を切ったり、目をつぶしたりする。考えようによっては残酷である)が支配していること。語りの形式は音楽のように整っていて、導入部と結尾に定型があり、同じパターンの反復や挿入話で構成されているということ、などでしょうか。

 この本では膨大な説話数を扱っているので、物語の内容については簡単に触れられていただけですが、そのなかでも奇抜な想像力が横溢した印象深い話を引用しておきます。

死神は男を地下の国へ連れて行く。そこには人々の命のろうそくが燃えている。死神は男のろうそくを消す。/p80→これはフリッツ・ラングの映画にあった。

二人(主人公の若者と娘)はさまざまの物、または人に姿を変えてだます。鬼が追いついたと思うとばらの花と木だったり、僧と教会だったりする。あるいは二人は障害物を投げて逃走する。櫛、石、火打金などを後へ投げると森、山、火などになって追っ手を妨げる。/p142

この伝説は王子が吸血鬼と化した娘の墓から花を抜くと彼女は人間の姿になるという話である。/p149

神の裁き・・・そのとき緑の葉が枯れ枝に吹き出て彼の贖罪は終る。/p201

もっとも重味のある予言を発するものは未知のベールを通して見透すことのできる神聖な人とともに半狂乱の老人老婆、死にかけている人、断食や麻酔剤によって意識朦朧となった人などである。/p210

ちゃっかり者が次々に驚くほどの幸運に恵まれる話・・・「勇敢な仕立屋」・・・「物知り博士」/p216

「何でもくっつけ」・・・この方では人と人または物がくっつき合うというモチーフが興味の中心になっている。/p234

眠っている間にひげを切られたり、寝衣を替えられたり、コールタールや羽毛を体中につけられたりして、自分自身がわからなくなる話がある。/p285

両足を一緒にズボンに入れようとして飛び上がる男の話/p287

以上、上巻。

大地が大きな杭によって支えられている・・・ビーバーがこの杭を噛んでいると信じられ、ビーバーがそれを噛み切った時に世界が終るとされるのである。/p30

「尖らされた足」・・・トリックスターが足を尖らして木のなかに刺し込む力を与えられる。その術は四回以上やってはならない。この制限に従わなかったため彼は木に足を突き刺したままになる。/p50

人間がだんだん自分自身を食いつくし、あるいは手足を次々に切り離して、しまいには何も残らなくなったという話/p57

そこから入ろうとする人間には誰にでも咬みつこうとする扉についての話/p63

英雄が助けた人を蘇生させる手段として一番知られているのは死体の各部分を集めて組み立てるやり方である。/p79

主人公が大量の矢を作り、それを次々と天に向って射る。と矢は鎖のようにつながる。主人公は魔法によって梯子に変った矢の鎖を登って天に達する。/p90

年上の女が、若い女を森に誘い出して殺し自分は若い女の皮を被って若い女になりすます。だが皮がぼろぼろになってきたため若い女の夫に知れて罰せられる。/p112

以上、下巻。


 ぼんやりとした読後感としては、人類が太古から20世紀初頭までは、夜語りで膨大な時間を過ごしてきたということが実感できたことです。ラジオやテレビが発達したせいで、夜語りは消え、代って時事トークショーや芸能人の面白話を見ているという訳です。「彼ら(優れた語り手)の一人が口演しているという噂が村に流れると熱心な聞き手が山と集まって聞き耳を立てるのが常」(下巻p295)というのは、今でいうと、遠くまで誰かの公演を見に行くといった感じなのかもしれません。昔の語りのぬくもりは日本で言えばかすかに落語の席に残っているくらいになってしまいました。