:Alexandre Dumas『Les frères corses』(アレクサンドル・デュマ『コルシカの兄弟』)


Alexandre Dumas『Les frères corses』(l’aube 2006年)
                                   
 3年前ブラッサンス公園古本市で買ったもの。序文によると、『コルシカの兄弟』が出版されたのは1845年で、『三銃士』で評判になった直後とのこと、前年に『コルシカの一家』というタイトルで出たものがもとになっているようです。序文ではほかに、デュマが実際に1842年にコルシカ島を訪れており、この物語はその時の体験がもとになっていること、また同じくコルシカの復讐劇を描いたメリメ『コロンバ』の影響があることなどが書かれていました。

 語り手はデュマ本人で、コルシカ島を訪れ、南の古い風習の残っているサルテヌ地方で宿を借りるところから話は始まる。その家には母親と双子兄弟のうちの兄が住んでいて、弟はパリへ出て弁護士をしている。その村では10年来、村を二分して9人もの死者を出している争いがあり、兄はその調停のために奔走していた。デュマは兄に随行して交渉について行ったり、立会人となって調停式に参加したりし、兄の人柄と手腕に驚嘆する。ただ兄には心配事があり、それは弟がパリで何か困っていることがあるとテレパシーで感じることだと言う。

 デュマはパリに戻ると、すぐ弟の弁護士に会いに行くが、その翌日の夜、一緒について行った仮面舞踏会が発端となって、あるいきさつから弟が男と決闘することになった。介添え人となって決闘を見守ることになるが、決闘の日の朝、弟は前夜父の幽霊が現われて死を告げたことを話し、その通りになる。その5日後、デュマの所へ突然兄の方が現われ、テレパシーで弟が決闘で死んだのを知ったと、自分の体についた傷跡を見せるが、弟が撃たれた正確な位置を示していた。兄は弟の敵に決闘を挑み、一撃のもとに打倒す。それは兄弟があまりにそっくりだったため、相手が弟の亡霊が出てきたと怯えたからでもあった。兄は復讐を果した後、デュマに抱きつき弟の名を呼びながらはじめて号泣する。

 細やかな文飾を省略した粗筋だけなので、味わいも何も消えてしまいましたが、これまでフランス語で読んできたデュマの怪異な物語に比べると普通の小説です。幽霊が出たり、テレパシーのような現象が語られたりしますが、それは物語の装飾的な要素で、この物語の基本はコルシカの男たちの生き方を描いた一種の冒険読み物です。そこにはデュマの男らしさや軍人魂への共感のようなものを感じ取ることができます。実際にデュマのお父さんは武勲にすぐれた将軍だったようですから。

 兄弟が遠く離れていても、お互いの動向が分かるというのは、この前読んだデュマの『死者自らが語る話』のなかの「二人の学生(Les deux étudiants)」と同じ趣向によるものです。デュマはこういったテレパシーや心霊術をかなり本気で信じていたみたいです。

 父親の幽霊が現われる場面で、服装などは生きている時とまったく同じ様子だったのに、目だけが死んでいて、その目から涙がひと筋流れており、唇が音も出さずにかすかに動くだけだったが頭の中にその声が鳴り響いたというところは、何とも恐ろしさが募りました。

 が、デュマの欠陥を言えば、こうした大人向きの物語においても、お伽話を語るような過剰な説明描写があるところです。例えば、二人の仇敵に仲直りの握手を求めた村長の言葉を聞いた途端に、二人が手を背中に引っこめるといった子供騙しの表現(p91)や、決闘で弟が死んだとき、遺体を家に運び込んだら、家の時計がちょうど死んだ時刻で止まっていたという場面(p153)など。これは読者を喜ばそうとデュマが話の勢いでどんどん書き殴っていったところに原因があると思われます。

 それと関連して、後半この本を読むスピードがどんどん速くなってきましたが、これは話が面白くなってきたのと同時に、知らない難しい単語も減って来たからで、デュマも丁寧に言葉を選んで文章を作るというよりは、平易な言葉で喋るように話を進めているからだと思います。

 一つ細かいところで、地名が実際と違うところに気がつきました。p53にTavaroという川の名前が出てきましたが、一昨年松本の古本屋で買ったミシュランガイドブックを見ると、本当はTaravoのようです。他の地名は実際どおりなので、これはデュマの勘違いか印刷屋のミスでしょう。