坂崎乙郎『幻想の建築』(鹿島出版会 1969年)
「ユリイカ 特集:幻想の建築―〈空間〉と文学」(青土社 1983年)
「幻想の建築」という題のある本を二冊読んでみました。片方は、建築に関連した幻想美術について、塔、回廊、室内、庭園、牢獄、宮殿、大伽藍、廃墟、ユートピアなどの章を設け、系統だって論じた本、もう片方はいろんな研究者によるテーマもアプローチも異なった評論・対談を集めた雑誌です。
坂崎乙郎『幻想の建築』は、澁澤龍彦の『幻想の画廊』(1968年)とほぼ同時期の書。学生時代に『幻想の画廊』は私のバイブルとも言える美術書で二読三読しましたが、この本はそれに勝るとも劣らない幻想美術論。どうして買ったまま読まずにいたのか残念でなりません。題名に「建築」という文字があったので敬遠したのだと思われますが、内容は完全な幻想絵画論です。鹿島出版会だったから「建築」という言葉は外せなかったのでしょう。
澁澤の本では、デシデリオ、クレルチ、ジョン・マルティン、ピラネージなどの鳥瞰的な広々とした光景に圧倒され、また少しエロティックな絵や数々のだまし絵、さらには美術の範疇を越えたシュヴァルの宮殿やボマルツォの庭、自動人形や舞楽面まで広範な領域にわたって幻想美を探究していて興味を刺激されました。坂崎のこの本は、クレルチ、マーティン、ピラネージ(デジデリオも名前は出てくる)など澁澤とかなり重なる部分もありますが、澁澤の本にはなかったいろんな幻想建築の設計図をはじめ、イシドールの城、ユーゴーの幻想画、エルンスト・フックスも取り上げられています。美術の専門家らしく、美術史全体を見渡した論述が光っていて、「画家のアトリエ」の章などは、ツヴァイクの引用から書き起こし、マドンナを描く聖ルカが画家のアトリエのプロトタイプとしながら、デューラー、クールベ、ピカソへと展開していく叙述の進め方には感心してしまいました。
文章は難しく分からない部分がたくさんありましたが、その理由のひとつは知らない画家の名前や作品名が何の説明もなしに出てくるので、その絵を知らないものには見当がつかないこと、また使われている専門用語についても丁寧な説明がないこと。それで初心者は躓いてしまいます。この時代(1950~60年代)は、簡潔で断定的な物言いが才気走った書き方としてもてはやされていたようです。よく言えば、分かってもらうことよりもかっこよさを大事にしたということでしょうか。
素人のひがみで、丁寧に読めばもっと理解が深まるのでしょうが、とりあえず印象に残った点は、
①現代美術に対する辛口の批判で、セザンヌを境目として、その後のキュビスム、フォーヴ、表現主義の画家たちは対象を純粋なフォルムとして扱い過ぎて主題や人間が疎かになっているとし、キュビストの創造した建物のなかでは人は息づまると指摘しながら、新たな空間を模索するキリコにひとつの可能性を見ていること。
②ベックリンの「死の島」は当時のドイツの茶の間に飾られるぐらいの大衆画だと聞いたことがあったが、後続の画家たちに多大な影響を与えていたことを知った。著者はキリコの『時間の謎』を挙げるに留めているが、ヴィルヘルム・クライスの『死者の城』にも影響がうかがえると思う。
③レンブラントの絵で内面の問題が空間として表現されているように、17世紀オランダ絵画には、内と外、理念と現実との見事な融合が見られる。しばしば空想力の貧困が指摘されることもあるが、現実の持つ幻想性を見る必要がある。これはマルセル・ブリヨンが「幻想的現実」と命名したものではないか、と言う。
④モネの「ルーアンのカテドラル」はデジデリオの幻影の建物以上に、非建築的な幻覚の様相を呈しており、レアリスムから出発した印象主義の一つの極であるとする。石は光の量として測定され、石や大氣は色彩に同化され、現実を離脱した幻想に近づいているとも。
⑤ポンペイやヘルクラネウムの死の都が廃墟として取り上げられていたが、私はこれは廃墟ではないと思う。廃墟は、堅牢であるはずの建物が人の手から自然に委ねられることにより、時とともに徐々に崩壊し自然に溶け込んでいく途上の姿が美しいのであって、ポンペイの場合は生活のある一瞬がそのまま封じ込まれており、逆に人間の生々しさが強く残っている。
⑥シュヴァルが憑かれたように造りあげた宮殿について、その原動力は幼児に近いナルシシスムとしている。幼児にとっては現象界はいまだ現実として存在していないが、シュヴァルの場合は、現象界が失われてしまったため、夢の中でしか生きられなくなり、夢が現実を覆い尽くしたと説明している。
引用されている絵で気に入ったのは、アントニオ・ダ・モデナ『理想都市』、キリコ『時間の謎』、エルンスト・フックス『パリスの審判』と『建築風景』。
「ユリイカ 特集:幻想の建築」も記号論とかそのほか新しい理論を応用した論述が多く、私の理解の及ばない部分がたくさんありましたが、分からないなりに面白いと思ったのは、アンデルセン井出弘之訳「巨大な夢―英国におけるピラネージの影響」、池田信雄「楽園の引越し魔―ジャン・パウル」、寺島悦恩「俯瞰・断片・メランコリー―バロックの空間」の3篇。
マリオ・プラーツの高弟というアンデルセンの論文では、ピラネージの絵がイギリスに与えた影響として、コールリッジやド・クィンシーへの直接的影響や、ギリシア対ローマの様式論争が起こったときにローマ派の根拠とされたり、室内装飾のデザインに流用されたりしたこと以外に、ゴシック小説の引き金になったことが述べられていました。ピラネージがベックフォードの父親に版画を献呈していること、ベックフォードは幼少にして牢獄のヴィジョンを植えつけられそれが「ヴァセック」に反映していること、またウォルポールの「オトラント城」の有名な甲冑の場面がピラネージの作品にあることなど。驚いたのは、モーツァルトがフォントヒルの城館で若きベックフォードにピアノを教えたということです。
「楽園の引越し魔」は、ジャン・パウルが意外と現世を愛する「カルペ・ディエム(この日を摘み取れ)」の信望者であったことを、処女作『ヴーツ先生の生涯』などに見られる牧歌的枠組みや、代表作『巨人』の主人公の遍歴を辿りながら示しています。ただ現在の楽園に安住するという単純なものではなく、楽園にいることが楽園を否定するというパラドクスのなかに生きたり、バロック的宮廷陰謀の階梯を経ることが条件となっていたり、一筋縄でないところにロマン的ユーモアのありかがあると断じています。牧歌的枠組みを作るために、辛辣にならないようにユーモアに手心を加えたり、視点を低くとり至近距離からの細密描写に徹したりし、また主人公の設定も高望みしない視野の限定された小人物とする、というのを読んで、これはビーダーマイヤーではないかと思い当たりました。
「俯瞰・断片・メランコリー―バロックの空間」では、四体液のひとつメランコリーには、老い、死、秋、冬、狂暴、錯乱の面と、霊感を受けた熱狂の面の二重性があり、それが上昇して創造に向かう情熱と、下降していく極度の衰弱の二つの動きに表われるとして、俯瞰と深淵という言葉から考察しています。18世紀の「ピクチャレスク」、ミルトン『失楽園』のエデン、メランコリーの両面が描かれているデューラーの「メランコリアⅠ」、スペンサー『妖精の女王』のアルマ姫の塔などが例にあげられていましたが、印象深かったのは、ヘルメス主義の「混沌のシンドローム」という原理を説明した次の部分です。(1)創造とは両極の交合によるものであること、(2)創造に含まれるグロテスクと不合理の要素、(3)創造は彷徨・悲嘆に関わる、(4)暗黒・混沌は生命原理に関わる、(5)降下すること、怪物との出会いは新しい生を得る経験であること。そして著者は、断片と廃墟を崇めることはバロックの精神に他ならないと断言しています。
そのほか分かりやすかったのは、沈黙の建築、語る建築、歌う建築という三種類のあり方を散文と詩の言葉と比較した粟津則雄「ヴァレリーと建築」、廃墟の思想はヨーロッパに特有のものと言う篠田浩一郎「廃墟の思想・廃墟の美」、一望監視施設である監獄とフーリエの共同宿舎(ファランステール)を対照した田村俶「幻想・パノプチコンとその周辺―フーコーの射程」。
宇波彰「差異のない都市」で、40階の高層マンションで、上の方の階へ行くほど社会的地位と収入の高いひとが住んでいるという設定のバラードの『ハイ・ライズ』が紹介されていましたが、先日読んだ二つの小説『迷宮1000』、『メトロポリス』も、同様の垂直的な階層構造を持つ都市が舞台となっていました。また、アメリカでは「道路や橋の維持ができなくなり、交通事故が増えている」という記事があったことが紹介されていましたが、1983年にしてすでにこの問題が発生していたんですね。