:廃墟についての本また二冊


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岡林洋『廃墟のエコロジー―ポスト・モダンからの見なおし』(勁草書房 1988年)
クリストファー・ウッドワード森夏樹訳『廃墟論』(青土社 2004年)

                                   
 この二冊は同じ廃墟を扱っていると言っても、まるで正反対のアプローチです。岡林の本が哲学ならば、ウッドワードの本はノンフィクションといったところでしょうか。

 私の理解力、想像力が不足しているせいだと思うので、あまり悪口は言いたくありませんが、『廃墟のエコロジー』は、説得力が感じられずよく分かりませんでした。「廃墟」について書いていますが、廃墟への愛好からスタートしたのでないことがうかがえます。

 もともとカントの美学から出発した方のようで、ロマン主義研究を続けていくなかで、ポスト・モダンの波にさらわれ、その二つを折衷したという感じがします。現在、ポスト・モダンの波が去って行った後、どういう地点に著者はいるのでしょうか。エコロジーというのもよく分かりませんでした。

 しかし新しく教えられたことはいくつかあって、十九世紀半ばのミュンヘンに「歴史上存在したありとあらゆる建築様式が・・・主要建造物のファサードに取り入れられている(p9)」といったようなポスト・モダン的状況があったこと、ホーエンシュヴァンガウ城が私の愛好する「画家フォン・シュヴィントの直筆の壁画で飾られている(p110)」ことなどを知ることができました。


 ウッドワードの本はぐんと読みやすく、おもしろく読めました。謝辞にもあるように、この本は「廃墟が昔から、どれくらいたくさんのインスピレーションを生み出す源となってきたかについて述べたもの(p363)」。それを豊富な資料を使ってノンフィクション・ドキュメントタッチで叙述しています。資料となっているのは、これまでの廃墟論がどちらかというと絵画や建物や庭園といったビジュアル系のものが中心だったのに対して、詩や旅行記や作家の手紙などの文章から廃墟に言及した部分を取り上げて論じています。

 この本の魅力は著者の経験を物語風に語りながら、説き進めていく表現の仕方にあると思います。歴史や小説についての幅広い知識があり、現代広告にも目を留める(p144)センスを持ち、記述の内容にもクレバーさを感じさせます。各章の標題も洒落ていて、この著者がなかなかの文筆家であることが分かります。訳文もこなれた文章。

 冒頭第1章から惹きつけられました。『猿の惑星』のラストシーンから始まり、古代ローマが80万の人口から3万人まで激減し、古い建物が壊され、カンパーニャ地方が荒涼とした平野と化す崩壊過程が提示されますが、情景が目の当たりに見えるようです。そしてそのローマのとくにコロセウムを中心に、ルネサンス以降訪れた作家たちが、それぞれ独自の感慨をもつ様子をさまざまな文章の引用で明らかにしていますが、ポーに「コロセウム」という詩があるのは知りませんでした。

 その後、いくつかの廃墟を訪れた人の記録を紹介し、郷愁に溢れた廃屋への帰還のテーマや、シェリーとキーツのイタリア体験、人命のはかなさの隠喩としての廃墟、ピクチャレスクという一大革命、模造廃墟の流行、ジョン・ソウンの廃墟に対する熱情、アメリカ人の廃墟感、戦争で破壊された建物の保存のテーマなどを次々に展開していきます。著者の大食漢的なエネルギーには圧倒されてしまいました。

 
 印象深い文章を引用しておきます。

フリードリヒの多くの作品の画面奥には彼岸がある/p81

ヨーロッパ的家内工業からさらに産業社会への発展が、実は、素朴な家内仕事にもとづく民族芸術をもはや維持できないような社会背景を作ってしまっている/p143

ルーマニアの農婦は、・・・彼女自身によって作られた家財道具を金銭で売り渡すことを拒む。・・・卵や鶏肉などの食料には金銭との交換が許されて、他方絨毯や衣類にはそれが許されない理由は何か。・・・彼女がもともと意図していたのとはまったく別の用途に用いられるかもしれないような危険にさらすことは、彼女にとって明らかに間違っていると思われたに違いない/p151

以上『廃墟のエコロジー

廃墟の気配こそが、西洋の古典芸術から芸術家が得ることのできた、最大の創造的刺激のひとつだったのではないだろうか/p16

ヒトラーは、コロセウムを半分空になった瓶というより、むしろ半分水の残った瓶として見ていた/p54

廃墟を愛する人たち・・・彼らにとって廃墟の魅力とは、脆弱性や移ろいやすさがはっきりと視覚で確認できる点にあったのではないだろうか/p54

ローマでは死者の数が生者を上回っているというだけではない。「この都市では墓の数が死者の数より多い。・・・大理石の安息所があまりに居心地がいいために、死者が空の墓に滑り込むのかもしれない。・・・夜になると棺から棺へと死体の移動する音が聞こえるという」(シャトーブリアン)/p73

フローベル・・・友人へ宛てて手紙を書いている・・・「とりわけ僕が大好きなのは、古い廃墟に草木が生い茂っている風景なんだ。この自然の抱擁とでもいうべきものが、僕を深い喜びでいっぱいにしてくれる。それは自然が人間の仕事をまたたく間に埋めつくしてしまうからなんだ。人間の手がもはやそれを防御しきれなくなった瞬間から」/p115

「人間は帝国の廃墟へ出かけては瞑想に耽る。しかし彼は、自分の方がずっと不安定な存在で、今にも廃墟になりかねないということを失念している」(シャトーブリアン)/p139

ヴァンブルーの手紙は、イギリス人の美的感覚を方向づける大きなターニング・ポイントとなった。・・・現実の風景も画家によって描かれたキャンヴァスのように、人間によって構成し直すことが可能だということ/p180

ダイアーはひとつの大発見に遭遇した。建物は廃墟となったときの方が、それが本来の姿をとどめているときよりいっそう美しく見える/p186

モニュメントは往々にして人を欺く。後世ともなるとその可能性は倍加する/p298

戦時の廃墟に関して・・・ひとつは、どのようにすれば破壊の瞬間を永遠に保存することができるのかという問題・・・ふたつ目は、物語の中に含まれている教訓を、いったいだれが決定するのかということ/p306

以上『廃墟論』

 廃墟についての本をまとめて読んでみて、われわれが廃墟に美を感じるのは、つねに世の中は進歩し緻密化していくものと思っていたところで、進歩が逆行し秩序が崩壊していくのを目の当たりにするからで、これは退行的精神の表われだとあらためて思った次第です。