:怪物・幻想博物誌二冊

///
荒俣宏『怪物の友―モンスター博物館』(集英社文庫 1994年)
澁澤龍彦『幻想博物誌』(河出文庫 1983年)

                                   
 荒俣宏『怪物の友』は積読の一冊。澁澤龍彦『幻想博物誌』はこの文庫本が出た直後に一度読んでいて2回目。案の定ほとんど覚えておりませんでした。

 幻獣シリーズもいよいよ残りわずか、さすがに連続して幻獣物を読んでいると、重複した話ばかりが目について、つい内容以外のことを考えてしまいます。例えば、今回の二冊には「博物」という共通項がありますが、こうした博物誌と博覧強記の筆者との相性の良さは抜群で、随筆のネタには最高。古今東西のいろんな話がつぎつぎと飛び火して行って、何か煙に巻かれたような名人芸を感じてしまいます。この反対にあるのは論理を軸とした哲学書だと思いますが、ほとんど固有名詞は出てこず、同じ場所で迷路のなかを堂々巡りさせられるようで、これにも特異な技が感じられます。

 これまで読んだ以外で、面白いものだけ取りあげてみますと、不潔な風呂屋に出没し板に付いた垢を舐めるという妖怪「垢ねぶり」(p13)、青白く光る人魂は地上に落ちると光を失い炭に似た固形物となって、そこにコガネムシによく似た小さな黒い虫がうじゃうじゃと湧くという話(p20)、吹雪の日に雷が鳴ると、雷と一緒に落ちてくるというネコに似た動物「秋田の雷獣」(p69)、王女が虫を飲んだ九か月後にその虫を両のこぶしに握りしめて産まれてきた英雄コンホバル(p144)、龍の肉をすしにして食べようとして酢に漬けた龍肉が五色に変じたという話(p158)、鬼の王の命令一下鬼どもに身長を9メートルに引き伸ばされ歩けなくなって倒れ、今度は短くせよの号令で団子のようにこねられ、蟹のようになって這うしかできなくなった姿を見て鬼たちが手を叩いて笑うという悪夢の世界(p198)、鼻の穴に差しこんだこよりに付いた鼻汁を妖怪が嘗めるとその人間は生命を吸い取られてしまうという話(p330)。以上、荒俣宏『怪物の友』より。

レントゲン線のように遮るものをすべて見透かしてしまう鋭い視線の持主である大山猫(リュンクス)(p109)、雷と一緒に天から落ちてきたと考えられて雷石と呼ばれ、護符として珍重された海胆の化石(p188)、別の伝説では、海胆の化石は、多数の蛇がからみ合いもつれ合って、その身体から出た粘液と泡で作られた『蛇の卵』と信じられていたという話(p189)、鴨の形をした果実のなる樹木があって、果実が熟すると、地上に落ちた果実はそのまま腐ってしまうが、水中に落ちた果実は泳ぎ出し羽ばたいて飛び去るという話(p212)。以上、澁澤龍彦『幻想博物誌』より。


 昔、澁澤龍彦を熱心に読んでいたころ、澁澤に足りないものは詩だと思っていました。詩そのものを取り上げた文章が少ないことに加え、抒情とか若さ、真摯さに欠ける語り口で、ご隠居が勿体ぶって説明しているような感じがしたことがそう思わせたに違いありません。今は彼なりに何よりも詩を求めていたことが分かります。あちこちの書物から不思議なイメージを寄せ集め、自分の好きな宇宙を作りあげることで、詩の代償行為をしていたのではないでしょうか。また、「海胆の殻・・・の残骸が、これほど豊富なシンボリズムを成り立たしめるのも、それが見事なシンメトリーと放射形を備えた、美しい形体を誇示しているためであろう」(p195)といった文章に見られる硬質な形態への嗜好はほとんど詩に近いものと言えましょう。ただし、やはり説明過多の文体が邪魔をして、結果的には詩とは遠く離れてしまっているのは残念です。この本にもたくさん引用されているボルヘスの『幻獣辞典』などは、凝縮された文体で、その一つ一つの項目が一種の散文詩としても読めるのですが。

 『怪物の友』のなかで、荒俣が澁澤の怪物趣味を論じています。澁澤の怪物狩りは「権威=正常をくつがえす異端』のシンボル集めであり、サドに対する愛着と同一のものであると指摘し、また人々の観念のなかに実在する怪物のイメージが人工のまがい物として視覚化された場合でも、澁澤はそうした人工の怪物に対して寛容であり、それを愛していたと言います。たしかに真偽や善悪よりも、美醜を大切にした人に違いありません。


 『怪物の友』には、『世界大百科事典』の「怪物」「妖怪」の項目が収録されていますが、とても見事に簡潔かつ要点を逃さずに説明していて、さすが荒俣と感じ入りました。また他にもこの本には、怪物や妖怪のあり方や本質について面白い議論がありました。
怪物の誕生という異常なものと、人工物の創出という新しいものは、自然の秩序を破るという点で共通しており、その意味で、怪物と機械はまったく立場を同じくする〈反自然〉の同志であるという指摘(p244)。 
近代は、あらゆる自然を分類して、名前をつけ位置づけをして体系化していった。そして分かりやすいものだけで世界を作った。でもつねに自然の母体にはそれ以外のもの(「その他」)がある。「その他」に対する感受性が重要で、かつて妖怪として語られていたいろいろな形態とか現象は「その他」に属していた。妖怪という回路を通じて異界とコミュニケーションをかわすという生活の知恵がなくなってしまったのが、今日のいろんな問題の原因(別役実の発言)(p298)。