:窪田般彌編『現代フランス詩論大系』


                                   
窪田般彌編『現代フランス詩論大系』(思潮社 1977年)

                                   
 アポリネール以降24人の詩人の詩論を集めています。ずっと読まずに置いておいた本。読む前から難しそうに思えたし、字が詰まっている感じがして敬遠しておりました。案の定、人によっては何を言おうとしているかさっぱり分からないものもありました。

 かなり理解できて、かつすばらしいと思ったのは、サンボリストとして回顧していてどこか悲痛なトーンが感じられるポール・ヴァレリー純粋詩への讃歌を綴ったアンリ・ブレモン、夢の実験をやさしく解説してくれるアンドレ・ブルトン、詩作の神秘を語るジュール・シュペルヴィエル、べとべとしたイデオロギーを嫌うフランシス・ポンジュ、詩に箴言をちりばめたジャン・トルテル、それに窪田般彌による最後の解説。

 逆に、失望したのは、コスモポリタン的視点が新鮮だがワグナーやルソーに敬意を払っていないアポリネール、知性の重視が目にあまるポール・クローデルイデオロギーに固まったポール・エリュアール、詩的神秘に対する非礼が呆れさせるルイ・アラゴン。トリスタン・ツアラ、レーモン・クノー、ドブジンスキーは問題外。

 イーヴ・ボンヌフォアの文章は、断片的にはとても美しくかっこいいですが、結局はよく分かりませんでした。評論を詩として書いているような節があります。評論ではやはり言葉を尽くしてほしいもの。でも難解でしたが、読後に、いろいろアイデアが浮かんでくるような文章でした。


 詩に関するいろんな問題が出てきていましたが、へたな解釈や解説はやめて、いくつか印象に残った部分を抜粋しておきます。

詩にとっては、管弦楽のもつエネルギーと力の前に蒼ざめ、気を失うような感じを覚えねばならぬ時代がきたのだ(p26)。
光もまた老いることがある(p30)。
われわれが完璧さという観念を横切れるとしたら、それは火傷をせずに手が焔を切るのと同じように、ただ一瞬のことでしかない(p31)。

以上ヴァレリー

開いた頁に偶然にも出くわした三四の詩句で、いや、しばしば二三の詩句の断片で充分なのです(p50)。→これは、詩が持っている断片性を指摘した希少な言葉だと思う。
すべての国々の大衆的な詩は、無意味さをこよなく愛しています(p53)。
詩の主題とか概要といったことが不純なものであることは、あまりに明らかです。・・・こうしたすべては散文で充分に間に合うものでしょうし、そうしたことこそ散文の本来の目的なのです。一言にしていえば、雄弁は不純なものなのです。というのは、雄弁とは、何事も述べないために多くを語る術を意味するのではなく、何かを言うために語る術であるからです(p55)。

以上ブレモン。

ブルトンが紹介していたルヴェルディの詩の断片、「小川のなかを歌が流れる」とか「純白のテーブルクロスをひろげるように夜があける」とか「袋のなかに世界はもどる」というフレーズが印象的(p90)。

影像(イマージュ)は暗闇の中で詩人を照らす魔法のランプである(p126)。
コントは一つの点から他の点へまっすぐ進むが、詩篇は・・・同心円を重ねて進行する(p126)。
ぼくは、一生のあいだ眼に拡大鏡をつけて仕事するあれらささやかな時計師の一族だ。詩篇全体がぼくらの眼の前で動きだすようにしたいなら、どんな細かいバネも、そのあるべき位置に置かれねばならぬ(p126)。
ぼくは詩を書くのに霊感の訪れを待たない。それに出会うのは、道を半ば以上進んでからだ。詩人は、あたかも口うつしに書取りをさせられるような、あれらごく稀な瞬間をあてにするわけにはゆかない(p127)。

以上シュペルヴィエル

神話が崩れ去った後、神の隠れ場、そしておそらく乗り継ぎの馬となるのは詩でありましょう(p134)。
詩の晦渋さは、詩の本来の性質によるのではなく、(詩の本来の性質は明らかにするということです)詩が探索しつつある夜の暗さ、すなわち魂の夜と、人間が浴しつつある神秘の深さによるのであります(p134)。

以上サン=ジョン・ペルス、ちなみに多田智満子の解説は、澁澤的啖呵口調が感じられて面白い。

死が大事件であるのはこの世においてでしかない(p168)。

以上ルネ・シャール

ひとりでにやってくるものでなければ、いいものはない。だから自分の能力の範囲内でしか書いてはならない(p181)。
本当のところ、表現は認識以上のものである。書くということは、知るということ以上のものである(p186)。

以上フランシス・ポンジュ

呪縛がとけるためには、ひとつの問いかけだけで充分なのだと。答えるよりは問いかけること(p241)。
語もまた、すでに消滅してしまったものの残骸である。語を、もはや本質の跡としてではなく、よいものの跡と見做そうではないか(p248)。
真の場所は偶然によって与えられる、しかし、真の場所においては偶然はその謎としての性格を失うだろう(p249)。

以上イヴ・ボンヌフォア