:G・R・ホッケ『迷宮としての世界』

グスタフ・ルネ・ホッケ種村季弘/矢川澄子訳『迷宮としての世界―マニエリスム美術』(美術出版社 1968年)


 『文学におけるマニエリスム』を読んでいて読みたくなりました。この本は出版間もない頃に一度読んだはずで、巻末に読了のサインもありますが、内容はほとんど覚えておりませんでした。ただこの本に印刷されている254もの図版のいくつかをよく覚えているのは、当時、澁澤龍彦の『幻想の画廊から』とならんで、私の美術手引きのバイブルだったからです。いま読んでも、引用されている絵の素晴らしさには魅了されてしまいます。この本の魅力は第一にこの図版にあり、とくに当時の日本ではまだなじみのなかったボマルツォの庭園やデジデリオ・モンス、現代イタリアの画家たちを紹介したことは意義深いと言えます。

 私がとりわけ魅入られたのは、パルミジャニーノ「子イエスと天使たちのもとなる聖母」、フィオレンティーノ「聖家族」、ジョルジョ・キージ「ラファエロの夢」、ドッソ・ドッシ「夢」、エル・グレコシナイ山」、ティントレット「聖マルコの遺骸の運搬」、クレリチ「ローマの眠り」、グロテスク模様の数々、トレヴィザン「スペイン階段」、アルチンボルド「擬人化された風景」、デジデリオ・モンスの一連の廃墟画、それにボマルツォの庭園とローマの天使城の写真。


 骨子は『文学におけるマニエリスム』と同じですが、絵に特化した部分として、いくつかの指摘が目に留まりました。
①全般的には、調和、均斉、節度、円、整合的な中心を崩していく傾向が見られること。それは、動揺、不安、見捨てられているという感情、寄るべなさが、デフォルマシオンへの意志を形づくっていったことによる。
②ひとつの特徴は、蛇状曲線様式。縦幅の伸長、横のプロポーションの収縮。人物の姿勢は無理にひろげられ、関節が脱臼しているようにも見える。
③自足的な円に対立する楕円、抛物線、双曲線が基本形態となり、卵型が神秘なフォルムとして尊重されている。
ルネッサンスの落着いた色調のバランスを崩す、色彩の半音進行とも言うべき極微のズレや暖色と寒色の鋭い対照が見られること。
⑤遠近法による幻覚の美学。加速された遠近法を駆使して描かれた階段や柱列。遠近法による視線の圧縮。だまし絵的な手法。
マニエリスムの装飾癖のひとつとしてラファエロから端を発したグロテスク模様。要素的なフォルムは解体され、植物、動物、人間のあいだで絶え間なく変身を重ね、螺旋や、蝸牛殻や、軟骨様装飾や、肢体関節からなるある混淆物が生まれる。
⑦装飾癖のもうひとつとして、スペイン起源の迷宮図としてのアラベスク模様。迷宮庭園としても流行。幻覚喚起的な無限を孕んでいる抽象の遊戯。色彩、面、線によって宇宙のリズムを再現しようとしている。この唐草模様、迷宮、螺旋、粒状発芽、車輪、金銀線細工、階段などの原モティーフが現代の抽象絵画にいたる道を拓く。
⑧さらに現代につながる点として、フォルムの実験が自己目的と化した先に、「自然においてはすべてのものが円および立体に還元される」というキュービズムの原型が16世紀にすでに誕生していたこと。


 絵の技法以外の指摘で面白かったのは、
①1527年に、カルル五世の率いるドイツ、スペイン、イタリア軍にローマが徹底的に蹂躙されルネッサンスが終熄する。これは1914年が古きヨーロッパの死の年であったのとまったく同様である。
②科学や芸術や文芸にあまり深入りし、芸術的完全性と独創性に努力しすぎると、人は邪悪になることがある。芸術は悪魔の領域に生きている。キリスト教的倫理では、謙虚さと敬虔さに欠けた高慢はあらゆる罪のうち最悪のものである。
③17世紀には畸形が流行しパリの乞食教団僧院は畸形の実験の中心となっていた。意外やデカルトがそこに何度となく滞在したが、デカルトにとっては畸形が現象世界と感官知覚の詭計を発く証明法となっていたからという。
④舞台上で、山が踊る巨人に、林立する塔がニンフたちに変身したり、瓜二つの登場人物が現れたり、絵画で人間の顔に化身する風景や建築物があったりなど、双面性はマニエリスム文学・芸術のひとつの特性であるが、この同一人物変身は、現代の犯罪文学では犯人暴露(二重人格)の謎とき遊びになる。
ミケランジェロが晩年に書いたという、自身を老いさらばえ病んだ老人として描写した詩の引用があったが(p107)、この詩がボードレール顔負けの凄さ!。


 全体を通して、『文学におけるマニエリスム』と同様、熱っぽい語り口による党派的宣言の書という印象で、学者では書けない奔放さを感じました。これはホッケが新聞記者だったということに起因すると思われます。この本を訳している種村季弘や協力者として名前が挙げられている澁澤龍彦も、その数々の著作において、ホッケ同様の奔放な語り口をしていますが、やはり出版社に一時籍を置いていたことと関係があるに違いありません。

 この本でひとつ物足らなかったのは、マニエリスムが姿を変え品を変えて現れて来るのに、マニエリスムの対立概念であり、もう一方のヨーロッパ的常数である古典主義がどう姿を変えてきたのかに言及があまりなかったことです。新古典主義自然主義、ビーダーマイヤーなども入ってくるのでしょうか。

 また、最後のⅤ章は、「汎性愛主義」「倒錯と歪曲」「ヘルマフロディトス」など、それまでの章と少しトーンが変って、人間の内面についての精神分析的実存的考察が開陳されていて、マニエリスムの本筋から少し離れたところをさまよっているような気がしました。内容があまり理解できなかったからそう思ったのかもしれません。