建物に関連した幻想文学についての二冊

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幻想文学48 特集:建築幻想文学館」(アトリエOCTA 1996年)
植田実『真夜中の庭―物語にひそむ建築』(みすず書房 2011年)


 建築の本の続きですが、しばらく物語の世界に入って行きたいと思います。その道案内となる本を二冊読みました。「幻想文学48」は、建築が主役となっている幻想文学を網羅的に紹介したもの。『真夜中の庭』のほうは、フランス文学出身で建築関係の編集をしている人が、自分の好きな小説や絵本を紹介した本です。

   
 久しぶりに「幻想文学」を読んで懐かしく思いました。昔は出るたびごとに新刊で買って、ブックガイドのところだけ熱心に読んでおりました。今も40冊ぐらいは所有しておりますが、何を隠そう、通読した号はほとんどありません。今回通読してみて充実ぶりに感心しました。もう歳なので何冊読めるか分かりませんが、そのうちまた別の号も読んでみたいと思います。

 建築と幻想、あるいは建築と文学に関するいくつかの論点が提示されていました。
①塔、城、神殿、迷宮、地下室、屋根裏、窓、扉といった建築の形や部分は、もともと文学的・哲学的なイメージを持つもので、多くの小説でそれらの表象が利用されている。建築幻想文学と名指ししているのは、建築を意識的に中心に据えた幻想文学ということ(石堂藍の文章を要約)。

②一方、建築家の立場からすると、現実に建っている建築は幻想とは言えない。ピラネージ的なものを描いているように見える建築家たちでも、リアリティを追及していて空想を描いているつもりはない(飯島洋一)。たしかに、建築は言葉なしでも成立するものだ。

③「遠くから眺めると、われわれにとっては混乱であるものが秩序と思えるかも知れず―われわれにとって不恰好なものが美しく見えるかも知れない」というポーの「アルンハイムの地所」からの引用があったが、結局は、建築物を見る側の視点の問題ということだろう。それは内面的なもので、現実の建築からは独立したものだ。

④つまり、合理的と思われるものであっても、見方によれば幻想になりえるということだ。福島県にある二重螺旋構造のスロープからなる木造三層六角堂の「さざえ堂」という建物は、幾何学と言えども、情念が度を超せばバロックになることを証明しているし(藪下明博)、遠近法が合理的なものと考えられたのは19世紀の絵画理論のなかでのことで、それ以前の18世紀のビビエーナ一族が使っている遠近法は化け物だ(高山宏)という。

 いくつか興味深い事実を知ることができました。例えば、『黒死館殺人事件』の生原稿に接した東雅夫の報告で、タイトルが掲載直前に書き換えられていて、その前は『黒死病館殺人事件』だったこと。自らの内に「メーズmaze迷路」の存在を感じるとき、それを「ア〈メーズ〉メントamazement驚愕」と言うこと(高山宏)。ブルーノ・タウト生駒山頂にユートピア的な小都市計画を考え設計していたこと(高山直之)。

 また読みたい本やゆっくり眺めてみたい絵画や映画などが続々と出てきました。本についてはたくさんあり過ぎるので省略しますが、絵画と映画は以下のとおり。R・ダッド「崖上の城」、ヤン・シュワンクマイエルの映画「ファウスト」と「フード」、クリスチャン・ジャンク「フランケンシュタイン城」、ジョゼフ・マイケル・ガンディー「マリーンの墳墓」、トマス・コール「建築家の夢」(カプリッチョという絵画のジャンルは、いろんな時代の建築を同じ場面に並べて見せる手法のことと知った)、チャールズ・ロバート・コッカレル「教授の夢」。


 『真夜中の庭』の著者は今回初めて知りましたが、優しい人柄がうかがえるような平易な語り口、私の感覚に妙にフィットする好みで、ファンになってしまいました。何よりも、自分の好きな世界を素朴にいとおしんでいる感じがいい。幻想小説やファンタジー、童話、絵本を一冊一章の形で取りあげ、建築との関係で文章を綴っています。とくに気に入ったのは、「衣裳箪笥の奥」、「いつか訪れた庭園」、「空き家」、「遠く、自由な場所」の4篇。

 建築関係の雑誌や本の編集に携わって来られた方らしく、肌感覚で建築が語られています。例えば、「衣裳箪笥の奥」では、まず部屋の内部が寝台と机と椅子と明かりという住まいのかたちとして語られ、次に室内と外部とのつながりを示す道や門、廊下、階段に眼を向けた後で、ファンタジー世界のなかでは、箪笥の奥が別世界のナルニア国に通じる抜け道となると、物語の話に移っていきます。

 異世界がお好きなようで、見知らぬ通りの塀の途中にある緑色の門扉を開けて、美しい宮殿の庭に紛れ込む体験への憧憬を語る短編(H・G・ウェルズ「塀にある扉」)、友だちの家の座敷から廊下や人けのない座敷を通り抜けてどんどん下へ降りて行くと自分の家の団欒に帰り着く話(筒井康隆「遠い座敷」)、少年が夏の間過ごした大きな邸宅で、大時計が深夜1時を打つと庭が古い時代にタイムスリップし、少年はそこで昔の子どもたちと遊ぶが、それは家主の老夫人の夢のなかに入りこんでいたという物語(フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」)が紹介されていました。

 上記の異世界ものは子どもの体験がベースになっていますし、この本で紹介されている半分以上は、児童向けファンタジーや童話、絵本となっています。子どもの世界というものが、現実の大人の世界の尺度とは異なる次元で展開しているというところに、こうした物語の源があるような気がします。この本全体が素直なトーンで覆われ、言葉のひとつひとつが心に沁みてくるように感じられるのも、著者のそうした資質にあるように思います。

 次のような文章は、建築関係者が書いたものというより詩人の言葉ではないでしょうか。「家のいちばん美しい光景は、ある意味では最後の最後に現れる。住まわれた果てに空き家となったとき、廃屋になったときである。建物の機能が終わったただの廃墟は、それがどんなに小さく無名でも別の詩性を帯びはじめる」(p59)