:G・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』

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G・ルネ・ホッケ種村季弘訳『文学におけるマニエリスムⅠ―言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』(現代思潮社 1971年)
G・ルネ・ホッケ種村季弘訳『文学におけるマニエリスムⅡ―言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』(現代思潮社 1977年)


 この2冊も学生時分に買って、大切に置いておいた本。当時、自分の関心に沿えばどうしても読まないといけない本で、とても読みたいのに、それが強すぎて、何となく敬遠してしまうという本が何冊かありました。少しページをめくって見て難しそうなので、この本が理解できないのではという恐怖心が先に立って読めなかったというのが本当のところです。いま読んでみると、たしかに分かりにくい。

 この本を難しくしているのにいろいろありますが、一つの原因は、〈〉や−の符号が至る所にちりばめられていて、見た目にもページがごてごてしてその意味が判然としないところです。あちこち見ましたが記号の意味はどこにも説明されていません。もとの文章がそうなっているようです。また原文の書き方自体がマニエリスム的と言うか、たいそう入り組んでいるようで、種村氏も相当苦労されたと思います。熱っぽく飛躍のある文章ですが、丁寧に説明しようという気があるようには見えません。構成にも原因があり、全体を俯瞰した形で、問題点を筋道立てて書いてはいません。2巻全体は5部に分かれていて、各部がいくつかの章に、また章の中にいくつかの項があり、その一項が独立した断章のようになっていますが、それぞれが断片的でかつ項目同士の重複が多い。

 もうひとつ分かりにくい原因を言えば、前著『迷宮としての世界』が美術分野におけるマニエリスムを中心に論じていて、図面を参照しながら読めるのに対して、どうしても文学におけるマニエリスムの特徴を語るには、言語の持つ翻訳不可能性が間にはだかっているということがあります。そのことは詩の翻訳に現れていて、種村氏もあとがきで書いているように、附録の詩のアンソロジーはあまり意味があるとは思えませんでした。本文中の詩の引用だけで十分だし、もし訳すなら原詩も一緒に掲載するべきだったと思います。

 悪いことばかり書き連ねましたが、着眼点内容ともに非常に優れた著作であることは間違いありません。『迷宮としての世界』と合わせて一種の党派的宣言の書となっており、ヨーロッパのロマン主義象徴主義愛する人間としては、バイブルとも言えるものです。骨子はあらためて書くようなものでもありませんが、美術史の世界で狭い時代に限定されていたマニエリスムの概念を拡張して、美術文学演劇音楽すべてに現れた「17世紀マニエリスムロマン主義象徴主義シュールレアリスム」というひとつの系列と捉え、古典主義、自然主義をそれに対峙するものとして考え、各ジャンル別時代別に、マニエリスムがどういう表現形式で現れているかを記述しています。17世紀マニエリスム以前からの影響として、古典主義がアッチカ風で、その理念は〈ミメーシス(模倣)〉であるのに対し、マニエリスムはアジアに淵源があり、その技法は〈ファンタジア〉だと言います。2巻の構成は、第Ⅰ巻は概説とマニエリスム理論、詩、Ⅱ巻は音楽、演劇、小説の分野を取りあげています。美術分野の『迷宮としての世界』と一体となった著作ということが分かります。

 バロックを常数的概念として叙述しているドールスの『バロック論』と似たところがあり、ホッケもバロックは精神史的にはマニエリスムの一種としていますが、ホッケによれば、バロックは客観的秩序(教会、哲学、国家、社会)志向を示し、宣伝的であるのに対し、マニエリスムはあくまでも主観的で反順応主義的で違うものだと言います(Ⅰ巻p288)。このあたりぼんやりと分かったような気になるものの、いざ何かと問われれば黙るしかありません。

 もともとこの本を読もうと思ったのは、このところ読んでいる言語遊戯の観点からで、その意味では、詩を論じたところに、たくさんの言語遊戯が、組み合わせ術として出てきたのが収穫です。マニエリスム的な詩の美学は、「何事も単純であってはならない」(Ⅰ巻p66)というペリグリーニの言葉、「あまりにも明快な言い回しでは、星が月夜に色褪せるように、明察はその光輝を失う。真の詩は暗闇のなかで星のように輝くのである」(Ⅰ巻p125)というテサウロの言葉に見られるように、曖昧、謎性に富んだ詩的迷宮を創り出すことにあり、驚異、不意打ち、新奇の効果を追求するものということが分かりました。隠喩至上主義とも言える立場で、象徴主義の理論に通じるものがあります。

 具体的な技巧としては、詳しくは説明しませんが、回文、逆文(蟹言葉)、アナグラム、忌字(例えばsを抜く)のリポグラマ、一個ずつ文字を落としていくカイマータ、集字(同一の文字をできるだけ多く使う)のパングラマ、類似音の語を並置する類音重畳法(パロノマジー)、文字や数字によって言葉の隠された意味を探るイソプセフィー、寓意、アレゴリー、擬人法、「鍵の髯」のように語を非本来的意味で使う濫喩(カタクレーゼ)、包括的概念と狭義概念を入れ替える提喩(シネクドケー)、誇大表現の張喩(ヒペルベル)、短縮表現のエプリセ、「氷の焔」のような矛盾形容法(オキシロモン)、予想もしなかった言葉で落ちを作るアプロスドケトン。他にもよく分からなかったロゴダエダリア、接続詞省略(アツイデトン)、嵌め込み詩などが出てきました。

 マラルメの世界書物の考えが、アタナシウス・キルヒャーの「大いなる術(アルス・マグナ)」の影響を受けたものとして、キルヒャーの世界解式について説明している所で、存在するもののあらゆる形式は、いくつかの基本要素に還元することができるという意味のことが書かれていました(Ⅰ巻p118)。これを読んでいて、類語辞典の分類体系を思わせられました。あの分類体系をもう少し発展させて何か曼陀羅図のようなものが描ければと妄想しています。

 中世初期のビザンチンで隆盛したエピグラムについて、過度の簡潔さは典型的にマニエリスム的であり、このような短形式文学も一種のマニエリスムという指摘がありました(Ⅰ巻p306)。フランスにおいて、象徴主義の後、短詩型文学に注目が集まった流れがありますが、これもマニエリスムという枠のなかで考えることができるわけです。

 ここで論じられている理論家、詩人のなかで、新しく興味の湧いたのは、マニエリスム理論の規範を作ったマッテオ・ペレグリーニ、バルタザール・グラシアン、エマヌエーレ・テサウロの3人の理論家、16世紀のスペイン詩人ゴンゴラ、イタリア詩人マリノ、マニエリスム的隠喩がおびただしいという17世紀ドイツ詩人ダニエル・カスパール・フォン・ローエンシュタイン、17世紀神秘主義者アンゲルス・ジレジウス、カローやボードレールのグロテスクな世界が脳裡に浮ぶという17世紀フランス詩人テオフィール・ド・ヴィオー、一連の幻想的神秘的作品を書いたという19世紀フランスの詩人ポーラン・ガーニュ、現代イタリアの詩人エドアルド・カッチアトーレ。  

 作品では、黒い神秘思想の系列に入ると書かれていたスウィンバーンの「クレオパトラ」、ジョゼファン・ペラダンの「エトペー」。附録のアンソロジーのなかでは、クロード・シェリエ「キメラ−人間」、ピエール・ルヴェルディ「鏡の前」、パウル・フレミング「時間(とき)はきみらがそれらであるところのもの」、ゲオルク・ハイム「黒い手のなかで」が印象に残りました。