「ユリイカ 特集:夢」


種村季弘/由良君美/磯田光一ほか「ユリイカ 特集:夢」(青土社 1979年)


 前回に引き続いて、雑誌の夢特集。錚々たるメンバーを集めています。評論とエッセイが12篇、対談1、コラム1、詩2篇で、評論は、文学、絵画の領域から夢を論じたものが中心となっています。なかには、夢を出しにして、夢とは直接関係のない日頃の自分の関心分野を滔々と語るものもありましたが。

 もっとも印象的だったのは、次の3篇。
加賀乙彦/清水徹対談「夢と文学」
加賀乙彦は以前『頭医者留学記』を読んで、クレバーさに感心した記憶があるが、ここでも、フランス文学界の大御所を相手に、互角以上に自論を展開していた。ドゥゾワイユという医者が夢を見ている患者の傍らでその夢の内容に立ち入り指示することで治療したことや、ジプシーの水晶球占いが実は催眠術の一種であるということ、夢を文章で記述すると夢は死んでしまうが、文学作品に現われる夢は言葉を象徴として使っているので実際の夢に近いこと、作品の中の無意識の夢的なものを不可解のままにしておきたい作家と、何とか解読しようとする評論家の擦れ違い、などについて縦横無尽に語り合っている。

有田忠郎「夢の物語・夢の記述」
19世紀半ばに自らの内部観察による夢の研究をし、フロイトシュールレアリスムに影響を与えたアルフレッド・モーリーの理論と、それに対するヴァレリーブルトンの反応を紹介している。断頭台で首を刎ねられるまでの長大な夢が実はベッドの横木が首に落ちてきた瞬間からさかのぼって見た夢だったというモーリーの有名な話に対して、夢の物語は本来は瞬間にすぎぬものを時間に添った継起の形で提出するもので、夢の中では長さは出来事の数に比例しそれを長大な時間と錯覚すること、また夢は覚醒後に記述するときに補足や合理化で歪められる、というヴァレリーの指摘は的を得ている。また、覚醒時を固体に夢を液体になぞらえる比喩はさすがヴァレリーらしいと感心した。

高山宏「アデュナタの熱狂」
ヴィクトリア朝世紀末のルイス・キャロルエドワード・リアの二人のノンセンス文学を独特の文体で称揚している。ノンセンスというのは「逆立ちした世界(アデュナタ)」で、17世紀頃流布された主従の逆転を描いた里謡木版画の民衆的想像力に根差すと前置きしたうえで、キャロルの言語迷宮や暗号文、リアの単語を繋げた連続語や擬音詩などセンスを転倒させた言語遊戯を紹介。さらには、キャロル作品の中の何度も追復される夢や、相互の夢の無限循環に言及している。キャロルの狂熱と比較してボルヘスの「記憶の人フネス」の精緻さへの狂熱を紹介しているが、ボルヘスらしい魅力のある話だ。

 次に面白かったのは、次の6篇。
磯田光一「変身譚の今昔」
社会は掟によって統一されているから無意識の領域に対しては抑圧として作用する。そのはけ口として、個人では夢を、社会では神話の諸類型を生み出した。古代の神話は、国家の自己神話化により掟を強化する『日本書紀』や『古事記』の方向と、無意識の領域の虚構化という点で掟にそむこうとするオイディプス神話の方向の二つに分かれていると指摘。引用されていた柳田国男の詩「かのたそがれの国にこそ/こひしき皆はいますなれ/うしと此世を見るならば/我をいざなへゆふづゝ」が何ともいい。

種村季弘「内部の遠方への旅」
ドイツ20世紀前半の狂気画家、霊媒画家のなかの一人エンマ・クンツを追った評論。女呪医で振子占師だった彼女は、途中から方眼紙絵画を占いに使うようになり、その絵は誰にも知られないまま貧困のうちに亡くなったが、遺品の絵がひとりの投資家に発掘されて一躍有名になったという。幾何学的図形が自然増殖していくような絵で、著者によれば、アニミズム的万物交感のとめどもない宇宙的広がりがあり、13世紀のビンゲンのヒルデガルトのヴィジョンとその奇妙な寓意図を連想させると言う。

由良君美「悪夢の画家」
男性の姿をしたインクブスという女性の眠りに憑りついて性夢を見させる夢魔を描いたフュースリの「悪夢」(1782年作)がメインテーマ。コールリッジ、ワーズワース、サウジーバイロンシェリーなどロマン派詩人の作品に夢の占める割合が多いことや、フュースリに横恋慕した女性ウルストンクラフトとの逸話(彼女がゴドウィンとのあいだに設けた娘がメアリ・シェリーとのこと)が紹介されていた。「悪夢」は新古典派の技法で描かれてはいるが、ロマン的心情を先取りしてヨーロッパ全土に影響を与えたとしている。ちなみに女性の姿をした夢魔はスクブスという。

〇及川馥「バシュラールの夢想」
夢は多く論じられてきたが、夢想はあまり考察対象にはならなかったと前置きし、バシュラールが、夢想を、現実に適応しようと気を配る現実機能から解放するものとして捉え、詩的夢想こそが人間的なものの最たるものであり、想像力はものと絶えず行き来きすることで飛翔を持続させる、と考えていたことを示している。またバシュラールが夢想に幸福なイメージしか見ていなかったという点にも着目している。「詩を読む場合にもことばを辛抱強く心の中であたためて、それがひとりで自由に動きだすようにしなければならない」というバシュラールのアドバイスは実用的か。

野口武彦「江戸人の六つの夢」
日本の文学において、夢が神託や占いから離れ、夢それ自体として独立していく過程を追っている。夢が世俗的な次元に位置づけられていくルートを、江戸儒学の合理主義が神秘を剥がしたことと、江戸初期の仮名草子に痴夢、愚夢の類が登場したことに求め、最後に夢の文学を確立した文学者として、上田秋成を挙げている。神託の時代であっても夢の迫真性を描いた記録はあること、夢に見たのとそっくりの場所に実際に行くという話が日本の夢の文学の一つのモチーフになっている、との指摘が印象的。

〇田中美代子「夢の境界」
いくつかの新鮮な感想があった。①夢ではつねに受動的な状態におかれているが、どういうわけか夢の中で退屈はしないこと。②私たちは日ごろ生身の現実に接していると思い込んでいるが、実際は想念の中に住んでいるのであり、そこからは決して出られない。なぜなら、現実の世界からの覚醒ということはありえないから。③プルーストは、眠りから醒めると、それまで失われ途絶えていた自分の意識が、再び自分の肉体にもどってきて、昨日の私に繋がるという不思議に驚いているが、ある人物Aの意識が眠りの世界で、誰かの意識と混線して、別の人Bの肉体で目覚めることは起こらないのだろうかと、幻想小説にありそうな疑問を投げかけている。