フランス文人のボードレール論

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ヴァレリー佐藤正彰訳「ボードレールの位置」(『ヴァレリー全集7』筑摩書房 1973年)
プルースト鈴木道彦訳「ボードレールについて」(『プルースト文芸評論』筑摩書房 1977年)
ジャン=ピエール・リシャール有田忠郎訳「ボードレールの深さ」(『詩と深さ』思潮社 1969年)
ジョルジュ・プーレ近藤晴彦訳「ボードレール」(『詩と円環』審美社 1973年)


 今回は、フランスの評論家、作家が書いたボードレールについての小論が収められている4冊をまとめて取り上げます。各人各様の特徴があり、ヴァレリーはいつものように深慮を経た言葉が箴言的で歯切れよく論旨明快、リシャールとプーレは詩作品のイメージを探究するという同じスタンスでお互いを補完し合っているという感じで、ともに文章が詩のように美しく、プルーストは病床で参考にする本もなく記憶だけで書きそれを編集者のリヴィエールに手紙として送ったという体裁で、内容はともかく記憶のすばらしさに感嘆しました。リシャールとプーレは再読、とくにリシャールは大学時代に読んだもので、まったく覚えておりませんでしたが、書き込みがあって懐かしい。

 それにしても、こうして並べてみると、刊行年がいずれも60年代後半から70年代に絞られていて、この頃フランス文学がまだ隆盛を極めていたことが実感できます。いま日本でボードレールについて新しい評論が書かれたり雑誌が特集を組んだという話は聞きませんし、本国でもおそらくそんなに書かれていないのではないでしょうか。


 ヴァレリーは、フランス詩人の数多いるなかでボードレールのみが世界的に読まれているという事実を挙げ、その理由を批評的叡智を兼ね備えているからだとし、ボードレール文学史的に位置づけています。
ボードレールは生まれも趣味も浪漫派だったが、浪漫派の情熱まかせの安易さに対して、古典主義的なところもあり、また批評家的精神から別の道を辿った。

②その批評家的精神は、詩作の哲理、人工的、近代的なるものへの理解、奇異さの趣味などとともに、エドガー・ポーに全面的に負っている。ポーの『詩の原理』から多大な影響を受けているにも拘らず訳さなかったのは、あまりに取り憑かれすぎたからだ。

③高踏派とも異なる点は、「霊肉の結合、荘重と熱気と苦渋、永遠性と親密性との結合、意志と諧調との極めて稀有な合体」(p232)が見られることである。

④そして最後にヴェルレーヌランボーマラルメへ与えた多大な影響を指摘している。

 ヴァレリーらしい箴言としては、次の一語に尽きるのではないでしょうか。「あらゆる古典主義は先立つ浪漫主義を前提とする」(p225)


 プルーストの文章は、病床で書いたというせいか、あちこちに話が脱線し、また枝葉末節な感想に陥るなど散漫な印象がありました。ボードレールを論ずるというよりもユゴーやヴィニー、ミュッセ、ルコント・ド・リールへの言及が目立ちました。ボードレールを評価しているところは、死や貧しい人々に関する見事な詩があること、一つの詩の真中で気分を改める感覚が抜きんでていること、誠実な姿勢があること。また作品の特徴として古典主義的な側面を指摘し、『悪の華』のなかでは「レスボスの女たち」の詩篇を高く評価していました。引用されているルコント・ド・リールの詩がなかなかいい。


 リシャールは、「ボードレールの挫折については、すでに幾度も語られてきた・・・幸福なるボードレール像を示さん」(p105)と宣言し、詩作品の中の珠玉のイメージを克明に探り関連づけながら、ボードレールの美学、思想に分け入ろうとしています。個々のイメージの解析についてはとても私の手では要約できませんので、その展開を追うのみにします。まず、芳香の広がりに着目した後、次のようにイメージを連綿と繋げていきます。

無限なるものへ向かう夢→深淵→始源なるものへたどり着けない焦燥→郷愁→金属(火の消えた太陽)の内部への旅→半ばぼうっとしたような明るさ、闇や怠惰の厚みの中に溺れた薄明り→物体が気化したものとしての香り→枯渇の恐怖→乾燥・寒さ・氷結の強迫観念→感覚を暗示するものとしての音楽→疲労の等価物としての霧→霧が凝固した石→蝋燭に照らされた窓→色と光の旋律的な婚姻→薬物と詩の恍惚感→生命発散の象徴である血(太陽)→凝結した血塊(夕陽)→腐敗の豊饒さ→快楽の敵としての過剰→美の世界と相容れない爆発→美の隠秘性→静かな揺れの幸福→時間の香り→たゆたいと前進とを結合したうねり曲がった線→うねりの恍惚感→螺旋→心地よい死である午睡→突飛な都会の身振り→植物的な多産性。


 プーレの「ボードレール論」はそのリシャールに捧げられており、原著の刊行年からすると、リシャールのボードレール論の後に書かれたものと思われます。内容は、以前ここでも書いたように(2016年8月16日記事参照)、ボードレールの詩のイメージに見られる空間の広がりと運動性に着目して解析していますが、リシャールがやはり運動性や広がりに注目しながらも、他のイメージの記述が多いのに対して、プーレはその部分に集中して論を進めたという印象です。とくにリシャールの後半の曲線、螺旋、唐草模様の議論を受け継いで、次のように展開しているところが印象的でした。

①うねる唐草模様の線の生気溢れ、想像的な美しい形は、決して停まることがなく、常に変った形でまた始まり、そのアラベスクと転回によって、あらゆる方向の無限の可能性を現わしているが、それは空間の豊かさであり、時間の実質である。

②うねり行く想像力の本質的に移り気な性格から、それが時間や空間の中に再び拡散し、霧散してしまわないようにするには、直線的な動きの方向に唐草模様の線を引いていくことである。直線とは動いて行く点であり、直線は曲線を支え、曲線は直線に絡まりながら、意志的であって同時に詩的である運動を形成する。

③直線と唐草模様の結合によって保持された空間は、律動的な空間、音楽的な空間となる。詩人のパイプから立ち昇る煙にも似て、思考の周辺を、ゆらめき、めぐって、その思考に優しさと深さを与えるのだ。詩の制作とは、一つの方向づけられた思考を巡って、巻きつき、巻き戻る螺旋ということができよう。

 別のところで、煙草、酒、麻薬、夢など、気化、霧散という流れの果てに、ボードレールは集中を求めるようになったが、それは再び集中化によって自己を拡大する能力(エネルギー)を身につけ、もう一度豊かに深く夢見ることが最終の念願だったからと書かれていました。この霧散と集中は、上記の曲線と直線の絡み合いと併せて、エントロピーとネゲントロピーの考え方と関係があるような気がします。