「伝統と現代 総特集:夢」


高田衛/遠丸立/笠原伸夫ほか「伝統と現代 総特集:夢―想像力の源泉と文化の祖型」(伝統と現代社 1973年)


 大昔に買って大事に置いておいた本。いくつかの論文は読んだ形跡がありますがまったく覚えておりません。「伝統と現代」は他にも、関心のあるテーマを特集していて、「グロテスク」、「神話」など何冊か持っていますが、いずれも読んでおりません。私の場合、特集型の雑誌は買った時点で満足してしまうのと、多くが二段とか三段組で字が小さく読みにくいこともあり、そのまま積読になる傾向にあるようです。

 13の論文と対談一つが掲載されていますが、心理学や生理学からのアプローチよりも、文学や神話と夢との関係を論じたものが多い。執筆者の顔触れを見ると、当時活躍されていた評論家、学者、詩人らが名を連ねていて、ある種懐かしさを感じました。

 冒頭の西郷信綱山口昌男の対談では、古代日本文学の大家で『古代人と夢』出版直後の西郷信綱に対して、当時新進気鋭の山口昌男が一人で延々としゃべり続けるという異例の対談となっていて、文学美学用語の奇天烈なカタカナ語彙をちりばめ、文脈を捻じ曲げてまで自分の得意分野の博学知識を披歴するような山口の喋り方は失礼千万の印象があり、あまり好感が持てませんでした。

 また、黒田喜夫の「夢と逆攻」は、例えば、「断念と絶望の淵からそれに自らをかけ、投げださざるを得ないときのひとの行為は全身的であって、根源的なものへの反論理的な挺身から、虚体とでもいうべきものと全体というべきものが分けがたいような塑形へと、その行為は描きだされるのである」(p81)といったような60年代特有の文体で、昔はこんな文章でもかっこいいと感じ何とか理解しようと悪戦苦闘していたのを思い出します。今なら、さっさと放り出すか、斜め読みで切り抜けるところですが、昔は物を知らなかったんだなと感慨深いものがあります。

 なかで、印象深かったのは、次の5篇。
遠丸立「深沢七郎と夢」:深沢七郎の小説で夢を直接素材にしたものは『風流夢潭』一篇しかないが、彼の小説全般に、時間的な構成を無視したところがあって、その荒唐無稽性や反現実的な様相は夢の世界と似ていると指摘し、島尾敏雄の小説が夢に対して自覚的であったこととの比較をしている。深沢七郎の脱力した自然体の生き方がなんとも好ましい。

西郷信綱山口昌男の対談「夢と神話的世界の構造」:山口昌男が紹介していた北米ウイネバゴ族の話と、北ナイジェリアの昔話は面白い。前者は、一口で便意を催すという球根を食べたワクジュンカガだったが、排便はせずガスだけが出る。それも強烈で木にしがみついても木ごと空に吹き飛ばされる始末。これは一大事とばかり村の住民が全員で彼の上にかぶさるが村全部が吹き飛ばされてしまうという話(続きがあるが略)。後者は、いたずら者が相手をこらしめようと、食べ物の中に入って相手の身体のなかで暴れまわり、相手が許しを請うと、硬い糞と柔らかい糞がこれから出るが、俺は後の柔らかい方で出ると言っておいて、先に硬い方で出てしまい、相手が柔らかい糞を思い切り棒で殴りつけてもいたずら者は居なかったという話。

高田衛「中近世びとの夢の系流―彼岸からの襲撃」:定家の「春の夜の夢の浮橋とだえして・・・」の「とだえ」を古代的時空とのつながりの切断と解釈し、中世以降に夢が観念語となり、夢と現実との交錯がテーマになることを示し、さらにまた怨霊の道としての夢について語っている。集団的幻覚のなかで、黄の旗をなびかせた甲の兵千騎が押し寄せ、現実側の五百余人の兵士たちが防戦し激闘したという『太平記』の話が面白い。

岡田精司「夢と古代王権の儀礼―宮廷祭祀と夢」:神の意志を知る手段は、神が巫女に乗り移って託宣する場合と、占いによるもの、そして夢見の三つがあった。夢見で天皇が神託を受ける場として神牀(かむどこ)があり、そこで天皇は神饌を食べ衾で寝るのである。現行は天皇単独で行なっているが、古代においては皇后の衾と枕も用意されており、新嘗の神事はかつて性的な儀礼が伴っていたという。

笠原伸夫「泉鏡花と夢」:「高野聖」や「龍潭譚」に登場する山中の美女は冥界の人のようでもあるが、すでに鏡花的想像自体が幽明の境をおぼろにしているということ。筋立てだけをいえばなんとも不合理な一片の怪異譚でしかないものが、鏡花の華麗なマニエリスム文体によって、単なる怪異性を越え美と結実しているということ。鏡花の女人の夢想は肉欲の匂いを消去する地点に成立しているという点の3つの指摘が印象的。引用されている鏡花の文章に久しぶりに接して懐かしさがこみあげてきた。