河合隼雄『明恵 夢を生きる』


河合隼雄明恵 夢を生きる』(講談社 2007年)


 古代、中世の人びとの夢に関する本を読んできましたが、今回は、日本の中世の代表的な夢日記に関する本を読んでみました。著者はユング精神分析の大家で、夢の専門家です。断定するのではなくじわじわと輪郭を描いて行くような丁寧な書きぶりで、である調で書かれていますが、ですます調のやさしい雰囲気があります。著者の人柄がにじみ出ているような印象を受けました。

 まず夢に関する記述や、それに関連して感じたことは、次のようなものです。
①夢に対する人間の態度はその社会によって大きく規定されているということ。現代人は夢をないがしろにしているが、古代中世の人びとは夢を神のお告げとして大事に扱っていたというのは、社会全体がそうだったからである。この本で紹介されていたマレー半島のセノイ族は、朝食の時間に前夜の夢を語り合い、大人は子どもの夢に対しいろいろと助言を与えるという夢を生きる習慣が社会全体に根付いていて、それでセノイ族は精神的に穏やかで安定しているという。

②仏教と夢の接点は、仏教の観想が夢と通じるというところにあり、夢の中の神秘的体験は宗教的とも言えること。中国の本で、夢想をすることで功徳が得られるとして、仏や菩薩を見る、空中に浮遊する、大河を浮かび渡る、高楼にあがるなどの夢を見るべく修行したことが書かれており、明恵もこの書物の影響を受けていると思われ、夢日記をつけることで、宗教的な感得をしていたということらしい。

③夢の一般的な機能としては、心全体の平衡性を取り戻すように、夢が補足的な役割を果たしているということ。精神分析では、本人が自分の夢から逃げずに意識的に見つめることで、心に潜む問題に本人が気づくように仕向けるようにしている。夢が持つ意味を本人が確実に把握しないと、いつまでも同じ夢を見続けるということである。建物の中を彷徨ったり、乗り物に遅れる夢などを見続けている私も、夢をぼんやり見るのでなく、しっかり見るように心がけてみたい。

④その他、夢の中で薬を飲むと実際に病気が治癒したとか、前に見た夢の続きを別の日に見たり、トイレへ行ったりなど中断を挟んで連続して見ることがあるとか、夢の中で夢を見ることがあるとか、夢の中で味覚や嗅覚が働くのが珍しいこと、夢の中で隠されたものがあったり、はっきりと聞けなかったりする場合、その隠されたもの聞けなかったものが重要だということ、などが書かれていました。

 もう一つ著者が力説していたのは、西洋と東洋の「もの」と「こころ」に対する考え方の違いで、
①西洋の近代文明は、「物質」と「精神」を明確に分断することで成立してきた。人間の意識にはいろいろな次元があるが、その仕切りを明確にし、他から切り離され自立した意識をもって、他を観察することによって、西洋近代の科学が生れてきた。無意識という概念も本来次元の異なる意識ということだが、西洋では「唯一の意識」という概念が定着していたため、無意識と名づけられ、無意識に対して病理とか異常とかいう言葉で貶めるようなことになった。

②しかし実際には、ものとこころは入り組んだ相補的関係を持っている。東洋的な(仏教的な)考えでは、自と他、ものとこころなどの境界があいまいであり、無意識の類心的領域への親和性が高い。すなわち西洋が因果的であるのに対して、非因果的な共時的連関への志向が強い。明恵が島や桜に手紙を書いたというのは、人間や動物、無生物にいたるまでが区別なく感じられたからである。

③「あるべきやうわ」という標語が明恵の思想の核心にあるが、これはものとこころの連続性を前提とした言葉で、ものには本来のふさわしい姿があり、日々、ものと接する際に、その心のありようを考えることを言っている。「あるべきやうに」ではなく、「あるべきやうわ」となっているのは、その時その場において、なにがふさわしいありようかを問いかけることであり、戒のように固定化させるのではなく実存的に生きようとすることである。


 印象的なイメージとして次のようなものがありました。

其の石の中に、当に眼あり・・・手を放ちて之を置くに、動躍すること、魚の陸地に在るが如し(石眼の夢)/p291

五寸ばかりの女性の形をした焼き物があり、唐から日本に来たことを嘆いているということなので、明恵が問いただすと、人形がうなずく・・・嬉しく思ったようで、「それならおいとしみください」と答え、明恵が了承すると、たちまち生身の女になった(善妙の夢)/p302

瑠璃の杖の、宝地の上に立つを見る。其の杖の頭に宝珠あり。宝珠より宝水流れ出で、予の遍身を沐浴す。爾(そ)の時に当たりて、予の面、忽ち明鏡の如く、漸々に遍身の円満なること水精の珠の如く、輪の如く運動す/p348

 華厳経の中に、「一々の小さな塵のなかに仏の国土が安定しており」「一つの小さな塵のなかに仏の自在力が活動して」(p321)という文章があるそうですが、これは「神は細部に宿る」の東洋版ではないでしょうか。