J・A・ハドフィールド『夢と悪夢』


J・A・ハドフィールド伊形洋/度会好一訳『夢と悪夢』(太陽社 1971年)

 また夢についての本。前回の『夢と死』に比べると、著者は幅広い知見を持ちバランスが取れていて、主張も明確です。また翻訳もこなれていて読みやすい。この本の主張をひとことで言えば、夢の機能を力説していること。それをサーモスタットのような自己調整機能としているところに新味があるのではないでしょうか。幅広い目配りで、悪夢や、心霊現象にまで筆が及んでいます。予知夢についても、機能という点では一般的な夢と共通するものがあると結論付けていました。

 若干疑問なのは、フロイトアドラーを批判しながらも、まだ夢の解釈においては、彼らの残滓を引きずっているように見えることと、夢に問題解決の機能があることについては理解できるが、必ずしもすべての夢が合目的的に作られているものではないと思うことです。少なくとも私の見る夢に関する限りは、問題のありかを教えてくれるような夢は1割もないでしょう。また同じ夜に見る夢がすべて関連しているようなことも書かれていましたが、それも経験上違うと思います。

 自分なりに解釈してもう少し詳しく内容を紹介しますと、
①夢がすべて願望実現であるというフロイトや、すべては力への衝動であるというアードラーの考えによる夢解釈は、時として無理がある場合がある。人間には生物学的な衝動があり、性的な衝動もあれば、攻撃や好奇の衝動、力への衝動があるというのは確かである。こうした衝動はすべてフラストレーションを生みその葛藤から様々な問題が生じることになる。覚醒時の意識的な精神では解決できない問題について、夜のあいだにそれを解決しようとするのが夢である。

②戦争でひどい目に遭った兵士が何年も戦争の夢を見続けるのは、昼のあいだ頭の中から追いやっていた思い出したくないことが、夜、抑制力が休止している間に跋扈するということである。夢は、直接問題の解決法を示しはしないが、夢の中で再現される現実は直接の体験が変形されたものであり、それをもう一度生きさせることによって、無視していた問題に注意を促す働きをしている。

③夢はシンボル的な表現で現われる。これは、同じことをストレートに表わす場合よりも、深い感動、感情を呼びさますことが可能である。「好機を逃してばかりいる」人のことを、あいつは「ボートに乗り遅れた」といった言い方をするが、夢は比喩的表現をそのまま形に表わす。

④精神または脳には、推理するプロセスとは別に、弛緩した瞬間に、自働的に問題を解決する力がある。それは無意識とも意識とも異なる下意識の働きであり、その特色は、意識よりも情緒の密度がはるかに高い。意識は、推理、論理、科学的な演繹によるが、下意識は、類推、連想、暗示によって働く。

⑤普通の夢と悪夢とが異なる点は、普通の夢が解決に向かおうとして睡眠状態が持続するのに対し、悪夢では解決が何ら提示されないまま恐ろしさのあまり目が醒めて中断してしまうことである。また普通の夢では、解決に向かうにつれて、少しずつ形を変えていくことがあるのに対し、悪夢では同じ場面が反復する傾向があり、幼年時代にはずっと同じ悪夢を見ることが多い。

⑥出生体験が悪夢として再現されることも稀ではない。閉所恐怖症は、難産で窒息しかけたり、乳母などから窒息させられそうになったことが原因であり、広場恐怖症は、生後直ちに母親の方を看病するため一人にして置かれた時の隔離不安が原因である。

神経症も夢も、両者ともに問題が未解決の結果生ずるものであり、無意識的に、問題に対する解答を見出そうとする。神経症が問題を妥協や不具によって解決しようとするのに対し、夢は、問題それ自身に正面から向き合い、解決法を試みるという点において異なっている。夢は神経症が見棄てた問題をつねに意識の中心に押し出すことによって問題を解決しようとするものである。