J・アラン・ホブソン『夢に迷う脳』


J・アラン・ホブソン池谷裕二監訳/池谷香訳『夢に迷う脳―夜ごと心はどこへ行く?』(朝日出版社 2007年)


 夢の働きを脳の生理学的な探究から科学的に捉えようとした著作で、専門的なことは分かりませんが、かなり最新の知見を踏まえた新しい夢の位置づけがされていると思います。これまでのやや観念的文学的な夢の捉え方とは異なり、物質主義的な見方とも言えます。

 フロイトにはかなり批判的で、現代の心理学界や精神分析学界にも辛辣な批判を浴びせかけていて、小気味よいくらい。この説に対してフロイトユングの研究者がどういう反応をしているのかが気になりました。科学的な視点で、かなり真実に迫った学説だとは思いますが、結局、夢の内容については、過去のいろんな本人の経験あるいは動物的な蓄積の中からなぜその夢が選ばれたのかというところまでは、はっきりとした説明はしていなかったように思います。

 夢の事例や精神疾患者の奇行をたくさん引用していて、分かりやすく興味深く読めましたが、とくに自分の夢や経験を正直に材料として使っているのが好ましい。驚くべきは、ご自身が車に追突されて一時記憶を失ってしまった時のことや、ボストンの町角で暴漢に襲われ命乞いをするような体験を、生々しくあからさまに書いていることで、前者の体験は自分の内側の眼から報告しているので、記憶喪失の恐ろしさと能天気さがありありと伝わってきました。

 いくつかの論点を私なりに整理しておきます。
①19世紀末に、フロイトやW・ジェームズらにより、いったん心と脳を総合的に研究しようという機運があったが、フロイト精神分析の方へシフトして以来、減衰していた。近年、脳内部の神経伝達の仕組みが電気的かつ化学的に行われているということが実証され、脳画像処理など新しい技術とともに心能研究の新しい段階に入った。

②心脳の状態を、1)脳内で生じる電気的エネルギーの強弱、2)外界からの情報量の強弱、3)覚醒を司るアミンとレム睡眠(夢・幻覚)を司るアセチルコリンの間の化学的な要素のバランス、の3つの軸から三次元空間の図式にして、覚醒時、夢見時、昏睡状態時、精神疾患者の幻覚時などの位置づけをすると、それらの状態を正しく理解することができる。

③器質的精神疾患には、自分が誰でどこに居て今がいつかという見当識の喪失、現実にないものが見える幻視、気を逸らされたりする注意欠陥障害、近時記憶の欠如、自分がおかしいということが判らない病識の欠如が見られるが、これらは夢にも見られる特徴である。つまるところ狂気も夢もどちらも錯乱なのである。

④私たちの記憶は物体ではなく、それ自体を観察することはできない。神経細胞のネットワークの中に、一連の電気パターンとして蓄えられ、さまざまなデータの集合体として存在するにすぎない。思い出すというのは、その一連の電気パターンを活性化することである。

⑤情動は単に実生活の出来事に対する反応ではない。それは本能的なものであり、生存にきわめて重要なものである。情動中枢は扁桃体にあると考えられる。夢は情動をはっきり示すものとして、情動の研究には有用である。

⑥夢を見るレム睡眠では、ノンレム睡眠より5倍以上、覚醒時より10倍以上、覚醒に重要なアミンを温存できる。つまり、覚醒時に正気であるために夢の中では自分を見失っている、あるいは、幻覚を起こさないために夢を見る、ということができる。

プラシーボ効果や催眠術による麻酔など、暗示の力は確かに存在する。暗示の化学的電気的な神経メカニズムの研究が進めば、今後治療に関する有用な技術として採用されることになるだろう。


 知らなかった、あるいはすっかり忘れていたことをいくつか教えられ、あるいは思い出させてくれました。 
①脳内にはおおよそ1000億個もの神経細胞があり、神経細胞の一つ一つは10000個の相手と接触し、それぞれ一秒間に100個の情報を送り出していること、また一日に約50000個の割合で脳細胞が死滅していること、
42度で脳細胞は死滅してしまうこと。

②睡眠はだいたい90分ごとに、浅い睡眠、深い睡眠、より深い睡眠、もっとも深い睡眠の順に移っていき、一晩では5回ほどこの睡眠周期が繰り返されることになる。夢をいちばん見るのは浅い睡眠時である。

③眼球運動がないところに視覚は生じない。だから目の筋肉が麻痺したら、視覚は消滅してしまう。

スウェーデンボリは、ビジョンを誘発させるために面白いやり方を考案した。夢を多く見るために夢日記をつけ、激しい夢を見るために、夜通し起きたり日中に断続的に眠ったりする睡眠剥奪の手法を取り入れた。


 箴言のような鋭い文章があちこちにありました。

脳は、自己をモニタリングするための神経を含んでいないのである。したがって、私たちには、脳を実際に作動させているという直接的な感覚はない/p30

心脳は天候と似ている。今日の天気を知ったからといって明日の天気を言い当てられるわけではない/p49

多くの人は夢で第三者として自分自身を見ることはない/p67

夢は精神疾患のようなものではなく、精神疾患そのものなのだ/p125

夢とは、思い出されることのない一連の記憶なのである/p176