ビンスワンガー『夢と実存』ほか

  
ビンスワンガー荻野恒一訳『夢と実存』(みすず書房 1960年)
ベルクソン宇波彰訳「夢」(『精神のエネルギー』〔第三文明社1998年〕所収)


『夢と実存』は、何とか最後まで読み通しましたが、序文というのは本来分かりやすい筈なのに、フーコーの序文がとても難しく、ビンスワンガーの本論もまた輪をかけて難しくて、日本語の本なのに、半分も理解できなかったような気がします。ほとんど白旗降参状態。年齢とともに衰えて来ている私の読解力に欠陥があるのが原因と思いますが、ひと頃の私であれば、こんな読者に解りにくい本を出す方が悪いと開き直るところです。ネットで見ると、訳者が3人になった再版が出ているみたいですから、少しは訳文を見直しているのかもしれません。それで口直しにと、以前読んだことのあるベルクソンの「夢」についての講演録を再読してみました。何と分かりやすい文章でしょう。読書というのはこうでなくてはいけません。


 到底ここに、責任をもって紹介することは不可能ですが、独断でもって、感想を書き散らすことにします。まず、フーコーもビンスワンガーにも共通する特徴は、きわめて文学的、詩的だということです。私自身はどちらかというと詩や文学なるものに人よりは思い入れの強い方だと思いますが、文学評論ならいざ知らず、精神医学として夢を論じる際には、詩とか文学で語ってはいけないと考えます。

 また二人とも自分の夢を事例として語ることがひとつもないのが、信用のおけないところ。ビンスワンガーはまだ、自分の患者が見た夢の事例を取り上げたりしていますが、フーコーは、フロイトやビンスワンガーの診た症例や、古典文学、神話からの引用しかありません。どうやらフーコーは、臨床嫌いの文学好きで、精神医学の立場からすると困った人だと思います。


 フーコーの序文では、次のような構成になっているとおぼろげに理解しました。
フロイトを、夢が心理学の対象となり得ることを確立させたと評価したうえで、夢を言語的な表現にのみ還元し、覚醒意識と同じ心理学的次元で構成されていると考えたことで、夢の可能性を狭めてしまうという失敗を犯したと批判。

フッサールは、夢の中の指標と、夢の体験を構成している意味的内容を、正しく区別し、心像自体を語らせることはできたが、表現のレベルでの了解というところまでは到達できなかった。

③これを解決せんとしたのがビンスワンガーの現存在分析であり、彼は夢の持つ豊かな意味を発見した。それは心理学的分析以上のものである。夢の中には自己の実存の本来的な動きと自由、人間学的意味性がある。

 結局、フーコーは、想像力を問題にしていて、心像と想像力との関係を、夢や詩の創作の場において検証しようとしているのだと思います。知覚と想像力と心像、幻覚、夢、詩の想像力などのキーワードで、その相互の関係を自分なりに考えてみる必要がありそうです。


 ビンスワンガーの本論は、大きく二つに分かれ、前半部分において、飛翔や落下の比喩や夢に見られる神話的詩的な観念表象を、シラーの詩、メーリケの『画家ノルテン』、ケラーの夢、ゲーテのイタリア紀行などを例に挙げながら、考察しています。フーコーと違って、イメージが具体的で、例証が豊富な分、分からないなりに、読んでいて気持ちのいい部分がたくさんありました。

 前半での議論は、夢の中での上昇、飛翔、浮遊や、下降、落下は、幸福や不幸という個人の感情と関連しているとしたうえで、こうしたイメージは一般的現象であって個人によって創られたものではないが、しかし夢を見るのは各個人であるということに着目しています。

 後半では、前半部から導かれた普遍性と個人の関係に焦点をあて、個人の感情も普遍性の中で(永遠の相の下に)認知することによって真理に到達できるが、再び主観性の中に生きてこそ、夢見る存在から覚醒した精神となり得ると論じています(という風に見ました。がそれでどうしたという感じです)。

 引用されている夢で面白かったのは、「一人の背の高い男が、砂丘の上を歩いて来るのを見た・・・この男は、わたくしの前で立ち止まって、網を広げ、その中に海を捕らえ、わたくしの目の前においた。わたくしがびっくりして網の目を見つめると、海は次第に死んで行った・・・わたくしは、泣きながら、男の足元に身を投げて、海をもう一度自由にしてやってくれ、と哀願した」(p149)という夢。


 訳者によるあとがきは、比較的分かりやすかったですが、結局、フーコーとビンスワンガーの論じていることは素通りして、現存在分析にいたるまでの一種の精神分析学史のような印象を受けました。フロイトの弟子であったビンスワンガーが、フロイトの自然科学的手法や汎性欲主義、決定論的傾向から離れ、臨床的な経験にもとづくフッサール現象学的方法による経験科学の樹立を目指したこと、さらに、心因性疾患(ヒステリー)と心因誘発性の大脳機能障碍にもとづく疾患とを区別して治療しようという当時の精神医学界に対して、デカルト的二元論を超克する立場から、その区別を撤廃しようとしたこと、を指摘しています。またフランスの精神病理学者アンリ・エーの、心因をあまりに重視するのは病的疾患を扱う精神医学の領域を超えるものであるという立場との比較を行ない、ビンスワンガーは、生命の科学の立場から、生命の根源的現象を把握しようと努めたことを明らかにしています。


 いちばん分かりやすかったベルクソンの「夢」は次のような骨子です。
①寝る前に目を閉じると、誰でも、暗い地にいろんな色のしみや光が見えるが、それが網膜の血液循環の変化とか閉じたまぶたが眼球を刺激するからとかの理由はともかく、それがベースになって夢が生じている。

②その外部刺激を夢の内容に変換するのは、記憶内容であり、刺激から得られた感覚が呼びさました記憶と結合して夢が生じるのである。

③覚醒時に物を認知する際も、われわれは素描としてしか認知せず、それを記憶内容と照らして精確な像を形成するのである。

④では、夢と覚醒時との差はどこにあるのか。それは覚醒時は緊張しているが、夢見のときは弛緩しているというだけの差である。また夢見の際の視覚的イメージは、パノラマ的に提供されるので、覚醒時なら何日もかかるような体験が瞬時に行なわれ得るということがある。


 再び単純化して言えば、フーコーもビンスワンガーも、過去の言説にとらわれ過ぎた、いわばブッキッシュな論評家ですが、ベルクソンは自分の体験をもとにゼロから考えていて、そういう意味では、真の哲学者だと言えるでしょう。