多田智満子『夢の神話学』


多田智満子『夢の神話学』(第三文明社 1989年)


 新刊で出たときに読み、今回23年ぶりの再読。当時は、初めて聞くような話が多くて驚いたらしく、いろんなところに印をつけています。そうした話がこの本にあったことはすっかり忘れておりましたが、このところ夢についていろいろ読んでいるので、この本で引用されている夢の半分以上は、西郷信綱『古代人の夢』ほかで読んだことのあるものでした。

 この本の全般的な特徴としては、著者の素養を反映してか、物語が豊かに語られていることや、ギリシア古典からの引用が多いことが、挙げられると思います。夢に関するさまざまな視点を網羅し、ひとつずつ項目立てて論評しています。夢に出て来た人物を探す話、夢をもとにした宝探し、夢を売り買いする話、夢の解釈で運命が変わること、夢がインスピレーションを与える話、夢のなかで壮大な一生を見る話、英雄誕生にまつわる夢、死を告げる夢など。これまで読んだ本に出て来たテーマとほとんどが重なりますが、他の本にはなかった夢の事例や夢に関する指摘も、いくつかあったので次に記します。(ひょっとすると忘れているだけかもしれませんが)。

①夢の中で見た人物を現実の中に探す話に関して、中国と日本を比較して、中国の帝王たちが人物の姿や顔立ちに基づいて探させるのに対し、古代日本の場合は、崇神天皇の意富多多泥古(おほたたねこ)の例のように、言語的で、視覚的要素を欠いていることを指摘している。

②悪夢をはらう方法として、中国では、伯奇という神獣に食わせたり、シュメールでは、粘土の塊に悪夢を語った後お祈りをしてから粘土を壊したり、ギリシアでは、悪夢を太陽神に語って輝かしい陽光で消散させたり、ユダヤ教では、悪夢を見た後断食をしたりしていることを記述。

③コールリッジ「クーブラ・カーン」の壮大な宮殿のイメージは、夢の中で得られたが、それを数十行書き付けたところで来客があり、机に戻ったときはすべて忘れ去っていたという創作時の顛末に加えて、実際にフビライ汗が夢の記憶をもとに宮殿を立てていたという事実をボルヘスが指摘していることを挙げ、二つの夢の間の整合性に思いを馳せているところ。

④夢は解釈されてはじめて効力を発揮するという事例として、イスラエルで、いつも同じ聖書の句を夢に見る二人が居て、ともに夢占師に夢解きをしてもらったが、金払いのよい依頼人にはよい解釈をし、一文も払わなかった方にはろくな解釈をせず、二人の運命が大きく分かれたという話。

⑤新しいテーマとしては、夢と現実が交錯する事例として引用された『列子』の中の二つの話。
1)主人にこき使われて昼は休む間もなく働くが、夜は王になる夢を見て贅沢三昧で暮らす使用人と、昼は家業のことをあれこれ悩んだうえ、夢で下僕となり叱られたり鞭打たれたりする主人の人生の対比。
2)薪をとっていて偶然鹿を撃ち殺した男がその鹿を隠したがその場所を忘れてしまい、あれは夢だったかと呟いたのを聞いた男が鹿を掘り当てるが、その話を聞いた女房が薪とりの男なんて居なくて夢を見たんじゃないと言う一方、薪とりの男は鹿を横取りされる夢を見て、裁判官に訴え出た。裁判官は、夢と真実が入れ混じっているが、ここに鹿があるのは事実だから二人で分けよと裁く。

⑥スペインの『バルトロニオの書』の中の「邯鄲の夢」によく似た話。魔術師に弟子入りした僧院長が、魔術師から恩を忘れないようにと釘を刺されたが、地下の小部屋で本をめくっていると使者が来て、僧院長の伯父の司教が亡くなり、後任に推挙されたとの報せ。魔術師とともに任地へ行くと、今度は大司教にとの報せ、そして次々と出世をしていくが、そのたびに自分の後任には自分の親戚しか当てず、魔術師の息子を取り立てようとはしない。最後に教皇まで上り詰めたところで、魔術師の堪忍袋の緒が切れて魔法が解け、地下の小部屋に二人で居るところに戻ってしまう。
→これは何かフランス書で読んだ気がして、調べてみると、昨年読んだフレデリック・トリスタンの『神と宇宙とベルト夫人』の挿話とよく似ていることが判りました。


 著者の語りの面白さがやはりこの本のいちばんの特徴であり魅力だと思いますが、引用されている夢の事例からベスト5を選ぶとしますと、次のようになるでしょうか。1)「南柯の夢」(李公佐『南柯太守伝』)、2)味噌買橋の長吉の夢(飛騨の民話?)、3)サンチャゴの僧院長の夢(アラビアの物語『40の朝と40の夜』を典拠としたドン・ファン・マヌエル王子『バルトロニオの書』)、4)邯鄲の夢(沈既済『枕中記』)、5)周の国の尹氏とその老僕の夢(『列子』)で、何度読んでも面白い。(話の内容はとても書ききれないので、この本か原典に当たるかしてください)。

 詩人の著者ならではのイメージ豊かな表現が随所にありました。例えば、「《夢の樹》・・・当てにならぬはかない夢の棲処(すみか)で、夢たちは葉のそれぞれにしがみついている。たぶん、葉が落ちるとともに夢ははかなく消えるのであろう」(p17)とか。それと、本筋の夢からは離れますが、「邢鳳(けいほう)という男、堂々たる楼門のある家に生まれたが、さしたる能もない男で、長安でのんきに暮らしていた」(p91)という文章には、なぜか我がことのように感じられ、心がほのぼのとしてしまいました。能力や成果に過重な評価を置く今の世のぎすぎすした雰囲気を溶かしてくれるような言葉だと思います。