夢に関する最後の二冊

  
ミシェル・レリス細田直孝訳『夜なき夜、昼なき昼』(現代思潮社 1970年)
瀧口修造『三夢三話』(書肆山田 1980年)


 長らく夢をテーマとした読書について書いてきましたが、このあたりでいったんけりを付けたいと思います。最後の二冊は、強いてまとまりを作るとすれば、シュルレアリスム系詩人学者の手になる二冊と言えばいいでしょうか。『夜なき夜、昼なき昼』は、大学時代に一度読んだものの再読で、あちこちに線が引いてありました。『三夢三話』は、20年ほど前に買って積んでおいた本。


 前回読んだ清岡卓行が夢をテーマにした掌篇小説を書くきっかけになったのが、この『夜なき夜、昼なき昼』を読み耽ったことにあったと、『夢を植える』のあとがきで書いていました。レリスのこの作品は、夢日記で、イメージの断片がちりばめられていますが、ひと続きの物語になっているものはほとんどありません。時期としては、両大戦間の1923年に始まり、第二次世界大戦に突入する時期がもっとも多く、戦争終了後1960年までで、当時のフランスの状況がうかがえます。シュルレアリスト夢日記というので期待しましたが、そんなに斬新なイメージは、あまりありませんでした。

 これまでも見てきたように、夢には必ず現実の体験が反映しているもので、ここでも、レリスの体験が濃厚に現われていました。中近東、アフリカなどへの民族学者としての調査旅行、フランス国内やヨーロッパへの個人的な旅のことが出てくるかと思えば、恋人Zが頻繁に登場したり、シュルレアリスムの友人たちとの交流があちこちに出てきたりなど。マクス・ジャコブ、アンドレ・マソン、ジョルジュ・ランブール、ジョルジョ・ド・キリコ、アンドレ・ブルトンロベール・デスノスジョルジュ・バタイユ、面白いところでは、リヤーヌ・ド・プジイ。

 夢が、言葉の連鎖(洒落、言葉遊び)から呼び起こされる性質を持っていることも、これまでの本でいろいろ書かれていましたが、この本でも、夢(rêve)と蜘蛛の巣(toiles d’araignée)、喉頭炎(croup)患者の咽喉に詰めるヴェール(voile)との連想から、ベッドが蚊帳に包まれたように見える幻覚が現われます(p21)。また、「ぼくは寝台に腰をおろしている自分の姿に気がつく」(p14)という自分を見る夢や、悪夢を終わらせるためには、「絶壁から身を投げるか、あるいは窓から跳び降りる」(p37)という悪夢対処法に関する記述も、他の本で出てきた話です。


 『三夢三話』は、散文詩のような体裁をとっていますが、普通の評論ないしエッセイと見て差し支えありません。夢の記述が中心の一種の夢日記ですが、それに付随して半分くらいの量で、夢に関する考察があり、またなぜその夢を見ることになったのか、自分流に種明かしをしているのが特徴です。  

 夢のなかで、いま夢を見ていると思うことがありますが、それは夢の中で考えているのではなく、醒める瞬間に閃く考えかも知れないとし、さらに夢そのものの次元には、意識のいくつかの層が重なったり、並行したりしていると感じるとしているのは、新鮮な捉え方だと思いました。

 生家で、血まみれの生肉を運び込んでいる数人の男たちから逃げようとして、「そうだ、あの奥の寝間へ逃げ込もう、彼処なら、と咄嗟に思ったが、そこには姉たちや、それになんということだ、自分が寝てしまっている」(p20)という自分を見る夢が、ここにも出てきました。この夢の種明かしとしては、幼少期、生家が開業医で、村同志の争いで村人たち数人が血まみれになって運び込まれたのを見た経験が語られていました。

 知り合いの赤子に虹という名前をつけ、それを村役場に登録しようとすると、係から、人名用漢字表にないので、この先の谷を降りたところから石を持ってきたら何とかすると言われ、足をがくがくさせながら谷を降りる。そしてひとつの石を手に取ると…。そこから先の文章が美しい。「なんの変哲もない石のようだが、そのひとつを手にして見ると、ただまるいというのではなく、不透明ながら一種の結晶のような稜角が見られ、透かして見ると微かに色が見えてくる。それが角度によって微妙に変化する。そのとき、ふと頭に閃くものがあって、足許から取りあげた小石は透かして見る暇もなく、完全に虹なのであった」(p53)。これも種明かしがあって、実際に友人の子どもに虹という名を付けようとして、区役所から断られたことを書いていました。