『日本の名随筆24 夢』


埴谷雄高編『日本の名随筆24 夢』(作品社 1986年)


 今回は、夢を題材にした随筆選。これまで読んできた本とは違い、学術臭が抜けて、気楽に読めるものが多くありました。37篇も集めるのにずいぶん苦労があったと思いますが、玉石混交というか、質はバラバラです。随筆らしい平易な文章のなかに魂に触れるものがあったり、深遠な真理が垣間見えるものもある一方、おざなりの手先の芸で文章を作ったと思えるようなものもありました。

 なかで、極上の作品は、種村季弘「睡眠者の全知」、柳田国男「夢と文芸」、大岡信「夢のうたの系譜」の3篇。それぞれ、古代の人たち、近代社会以前の村落の人たち、上代の歌詠みらと夢との関係について書かれていますが、どうやら3篇の雰囲気に通底しているのが、彼らの精神世界への憧憬というところにあり、それに私が共感しているのが高評価の原因のような気がします。

「睡眠者の全知」は、古代人が変哲もない石を崇めるのは、その石がヒエロファニー(聖なるものの顕現)であるからであり、そうしたことを成立させるためには、強力な精神共同体が必要で、古代にはそれが実現できたというところから筆を起こし、ネオ・プラトニズムからロマン派を経てシュルレアリスムに連なる一種のヒエロファニー復権の系譜を明らかにしている。結論としては、夢は神がもたらすものと考え眠りのなかで事物の本質を洞察していた古代人の精神の豊かさを称揚している。

「夢と文芸」で、柳田国男も、昔人の夢を大切にする風習は今日廃れたが、それに代わって何がその空隙を埋めているのかと問いかけている。文字の読めない時代は村の主婦が帳面代わりとなって夢を語り、そういう人も居なくなると旅の職業の女性がやって来て、円居の中で夢の国の話をした。これが文芸の芽生えであり、そこには主婦の夢のような薄墨色の陰影はなく、現世の不安を追払う紅色や朝緑の晴々とした色合いで、内容は不純にならざるを得なかった。さらに、今日では、「専門作者の才能を過信したばかりに、人は次第に夢見る力を失い、我と我が身に近いまぼろしを振棄ててしまった・・・文字を通してで無いと、そういう凡俗な文芸にすらも接し得ぬことになっては、子供や女たちは全く手があいて、頭をからっぽにして日を送らなければならぬ」と嘆くのである。

「夢のうたの系譜」では、上代の文芸に夢が多く歌われていたことに着目し、それが当時一般化してきた無常観と関係があると指摘し、夢という語の多義性、曖昧さによって引き起こされる物柔らかな暗示性が心を打つとして、その魅力を語っている。現代人にとって夢は純粋に個人の主観性の問題だが、上代の人にとっては魂の現実世界であって、夢に恋人が現われなくなると相手の心が冷えたと悲しんだ。またたとえ夢で逢えたとしても、現実の手触りは望むべくもないので、実際に逢えないことへの嘆きが裏に隠されていて、夢が「はかなさ」の代名詞となっていったとしている。
仏は常に在(いま)せども/現(うつつ)ならぬぞあはれなる/人の音せぬ暁に/ほのかに夢に見えたまふ(『梁塵秘抄』)/p215
かへりこぬ昔を今と思ひねの夢の枕に匂ふたちばな(式子内親王)/p223

 次に、小説家の随筆として筆力が冴えていたのは、安部公房「睡眠誘導術」、小川国夫「燃える馬」、吉行淳之介「夢を見る技術」、金井美恵子「夢の風景」、日野啓三鳥人の夢」の5篇。語り芸なので、変に縮めて紹介すると、原石の魅力が台無しになると思いますが、なるだけ引用をまじえて書いてみます。

「睡眠誘導術」は、ボルヘスコルタサル風の不思議な話。泊っているホテルのロビーで客と待ち合わせをしていると、1時間遅れると連絡が入った。部屋に戻ってうたた寝をして夢を見た。夢のなかで「頭にいちめん、小指の先ほどのカサブタが群生している」気味の悪い化け物に追いかけられる。これは夢だと思い当たり、高い所から飛び降りれば覚めるだろうと、意を決して、橋から砂利の河原に身を躍らせた。それがどうしたことか夢から覚めないまま、ゴムマリのように何度もバウンドするのを、化け物は橋の上から見て笑っていた。河原から這い上がると、前に泊まっているホテルがあった。時計を見ると、ちょうど1時間が経過しており、そのままなにくわぬ顔でロビーで客を待った。客と話しながら手の甲を抓ってみたら痛かった。夢と現実の切れ目がどこだったかと考えあぐねてしまう。

「燃える馬」では、父親から馬が焼け死んだという話を聞いた夜に見た次のような夢を語っている。たてがみと尾に火のついた馬が走っているのが見え、「その顔は馬の顔というよりも、人間の男の顔のようでした。血走った眼がとび出していました。白いよだれが長い紐になって、水平になびいていました」。馬の走っている道は先の三つ辻で私の道と合流することになる。馬と鉢合わせをしないでやり過ごせたらと願いながら、三つ辻まで来ると、火は馬の全身を覆っていて、「炎のなかから、黒こげになった首が青空に伸びていたのです・・・鼻の穴は開き、新しいよだれは網になって風にただよっていました」。びくびくしていると、馬が私を見、その眼が合った瞬間に私は金縛りになってしまう。

「夢を見る技術」では、恐ろしいイメージの夢が出てきたので、まるまる引用。「一人の男が横たわっていて、その顔が茹でたみどり色の蚕豆(そらまめ)でできている。その男は自分の顔の肉をむしり取って、緑色の口に入れてムシャムシャ食べている・・・むしり取って穴のあいたその底もやはり茹でた蚕豆で、澱粉質のかたまりが層になって覗いている・・・顔の部分がでこぼこになってしだいにすくなくなってゆく。そのとき目が覚めた」。

「夢の風景」もいかにも夢らしいおかしな空間を描いている。いつも見る夢で、木小屋の戸を開く場面。「木製の扉のしきいを越して入り込んでしまってから後ろを振り向くと、不思議なことにそこには扉の奥に見えるはずの家も庭もないし、まして扉は一枚の木の板だけになって白い世界の中に直立していて、扉が本来その付属物であるところの木小屋の壁も屋根も何もかもがなくなってしまっている・・・扉はこちら側の世界に向かって開かれている。しかし、奇妙なことには、扉は木小屋の内へ押して開いたのではなく、ノブを持って手前にわたしの身体へ引きつけるようにして開いたはずなのだ」。

鳥人の夢」は、友人との会話のなかで、羽根がなくなって野鼠のようになる夢を何度も反復して見るという共通の体験を発見し、もしかして我々は彼らの見ている夢なのかもしれないという話から、今度は時間軸に沿って分岐してゆく多次元宇宙を想像するようになる。「様々な宇宙に様々な自分がいる・・・様々な分岐点とさらにそのひとつひとつがそれぞれにまた分岐してゆく・・・重なっても触れ合うことなく、交錯してももつれることのない不思議な仕方で、無限に分岐する透明な迷路、そのひとつひとつの道が作り出す無限の宇宙が存在している」と。

 その他で印象に残ったのは、原民喜自死する2年前に書いた作品で、原爆後の生活と若い頃の思い出を交錯させて描きながら、「世界はこんなに美しいのに、どうして人生は暗いのか」と嘆く言葉が心を打つ「夢と人生」。裸の状態を不自然と感じるほど、現代では着衣が本来の姿になっていることを述べた後、我々は自国のヴィーナスをかつて一度も持ったことがなく、それどころか、日本の美術史には浮世絵の出現まで、純粋な女性美を探究した絵画さえ存在しなかったと嘆じる池田満寿夫「夢のなかのヴィーナス」、自分の思っている人が自分の夢に出てくるのは当たり前だが、上代では、相手が自分を思っていると自分の夢に現われると信じたり、思いを寄せる相手の夢に自分が出たりするのは、離魂譚的な現象だと不思議がり、「私にとって小説を書くということは、原稿用紙の上で夢をみること」だと言う高橋たか子「夢という、この不思議なもの」。