:バルベー・ドールヴィイ宮本孝正訳『亡びざるもの』

                                   
バルベー・ドールヴィイ宮本孝正訳『亡びざるもの』(国書刊行会 2005年)

                                   
 久しぶりに読むのに難渋しました。フランス語の本を読んでいる場合は、意味不明で途中で断念することがあっても気になりませんが、日本語でこんなに分かりにくいとなると、少々不安になってきます。いよいよぼけて来たかと。

 なぜかと考えるに、物語としてはまったく進展がないからです。登場人物はわずか三人。この三人の会話だけで360ページ近く、しかもその会話たるや物事の描写はほとんどありません。舞台となる場所は初めから終わりまで同じ建物とその周囲の庭や沼地が少々出てくるだけ。どこかしら『妻帯司祭』の城館と沼を思い出させます。物語の真中の2年間のイタリア滞在を隔てて一部と二部に分かれていますが、そのイタリア滞在の出来事にはまったく触れられておりません。

 この本の大半を占めるその会話の内容と言えば、箴言的言い回しが多く、それも男女間の恋愛感情や憐憫など心理の説明で、理屈っぽい表現に溢れています。フランス的饒舌体というものでしょうか、感情の襞という襞を言葉で埋め尽くそうという勢いに呑みこまれてしまいます。もっと絞り込み刈り込めばもう少し読みやすくなるのではないでしょうか。

 要は箴言、悪く言えば気障な言葉の数々がこの物語の一番大切なところであり、三人の人物がつくる三角関係の物語自体はさほど重要ではないのでしょう。小説のつもりで読むから憤懣が溜まる訳で、初めから箴言集を読むつもりだと、心の負担が少なくて済むように思います。

 箴言的表現を途中から注意して見るようにすると、読みやすくなりました。例えばこんな具合です。

夜を分けて進む昼のようだった、仮に日が夜を雲散霧消させることなく夜の中に立ち現れることができたならば。/p216

人間の本性は苦しむことに工夫を凝らすものゆえ/p238

この花は、目で見るよりも息遣いによるほうが所有の度合いが深まるからである/p241

人の魂が哀れなものであることを示すものだ。なぜなら、魂の翼は速やかに失われ、またこの神々しい鳥は、この上なく純粋な己の夢から血の滴る胸を獲得していたのに、そこから墜落しなければならないのだから/p245

人は情熱を、昇るにつれて階段が崩れるアラビアの物語のピラミッドに準えた。悲しいかな、階段が崩れるのはむしろ人が降りる時であり、さらに不可能なのは再び降りることではなく再び昇ることの方である/p260

一滴の水が、こと苦しみに関しては、無限の大洋を蔵しているのだろうか/p266


 と言っても、物語にドールヴィイ的要素がないわけではなく、最後の50ページほどになって、ようやく母娘と青年三人の三角関係のおぞましい状況が煮詰められ、前代未聞の奇怪な結末へと展開して行くあたりはドールヴィイならではのものでしょう。(ネタバレになるので今回は書きません)


 『魔性の女たち』のアクロバティックな構造や屈折した感情からは、ドールヴィイが後期ロマン派に属する作家という印象を受けていましたが、この作品では、例えば主人公の青年の詠嘆的表現などには、初期ロマン派的要素が感じられるように思います。

 最後に一点素朴な疑問ですが、これまで読んできたドールヴィイの物語の主人公たちはまったく仕事をしている気配がありません。貴族の生活を描いているからでしょうか。そうした雰囲気があるので、ドールヴィイの物語が少し世離れしたお伽話的な架空の世界だと感じられるのでしょう。