:バルベー・ドールヴィイ『魔性の女たち』関連の四冊

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J・バルベー・ドールヴィイ秋山和夫訳『魔性の女たち』(国書刊行会 1975年)
バルベー・ドールヴィイ渡辺義愛訳『ホイスト・ゲームのカードの裏側』(国書刊行会 1998年)
バルベー・ドオルヴィリー田中榮一譯『深紅のカーテン』(大翠書院 1948年)
ドールヴィリー北村光夫譯『罪と幸福』(晃文社 1948年)


 いずれも長らく書棚にあたためていた本。ようやく読むことができました。『魔性の女たち』『ホイスト・ゲームのカードの裏側』は新刊で、『真紅のカーテン』『罪と幸福』は古本でずいぶん昔にそれぞれ300円、50円 (これが言いたかった) で買ったものです。いずれもすべて「魔性の女たち」のなかの物語。

 『魔性の女たち』は、この物語の全編を忠実に訳したもの。『ホイスト・ゲームのカードの裏側』は、「ホイスト・ゲームのカードの裏側」とその詳細な解説、他にドールヴィイに関連した評論を二篇納めています(渡辺義愛氏の上智大学退官記念出版)。『真紅のカーテン』には「深紅のカーテン」と「カルタの裏」の二篇、『罪と幸福』には「罪と幸福」「女の復讐」の二篇が納められています。

 この作者名の日本語表記が難しくて、この他にも澁澤龍彦「罪のなかの幸福」ではバルベエ・ドルヴィリ、生田耕作「バルベー賛」ではバルベー・ドールヴィリー、小島俊明訳『妻帯司祭』ではバルベイ・ドールヴィリ、川口顕弘「歴史の一こま」ではバルベー・ドルヴィイ、宮本孝正『亡びざるもの』と中条省平『最後のロマン主義者』ではバルベー・ドールヴィイ、みんなまちまちですが、いまはどうやらドールヴィイに統一されているようです。

 『真紅のカーテン』『罪と幸福』の二冊はあまり知られていないようで、秋山和夫氏も澁澤訳の「罪のなかの幸福」には言及していますが、この二冊には触れておられません。

 タイトルの訳し方は、むかしの訳者の方が簡潔でよいように思います。「ホイスト・ゲームのカードの裏側」の訳の分からないまどろっこしさよりは「カルタの裏」、「罪の中の幸福」より「罪と幸福」、「或る女の復讐」より「女の復讐」。


 『魔性の女たち』はこれまで、「深紅のカーテン」「罪の中の幸福」の二篇はアンソロジーで読んでいましたが、今回全体を読んでみて、その語りの凄さにまた圧倒されました。

 澁澤龍彦が『魔性の女たち』の栞に「バルベー管見」と題する文章を書いていて、「遅れてきたロマン派の光彩陸離たる文体」を称揚しつつも「概してセンテンスの長い、うねくる波のような、色彩豊かな文体が、あるいは日本の読者には取っつきにくい印象を与えるかもしれない。あるいは時代遅れな、大げさな印象を与えるかもしれない」と指摘しています。訳文しか読んでいませんがまさにそのとおり、的確なところを捉えていてさすがと思わせられました。

 文章も取っつきにくく大げさですが、全体の構成も複雑で大仕掛けで見えにくくなっています。話が枝葉末節に飛んで、それが冗舌体で延々と繰り広げられます。その脱線は登場人物や町の雰囲気・性格をより正確に描き、物語に膨らみをもたせるためには効果があるものとは思いますが、ストーリーの展開にはいささかも関与しないので、それで読者は本筋を見失ってしまいます。例えば「無神論者たちの饗宴にて」は筋立てとしては、「日頃無神論を標榜していながら教会へ入るのを目撃されたメニルグランが教会へ入った理由を説明する」という枠組みに、いろんな装飾がついたものと簡略化できるでしょう。

 しかし、ドールヴィイの話術の巧みさの一つは、そうして枝葉末節に彷徨いながらも、ある頂点に向って話を盛り上げていくという技巧で、「深紅のカーテン」では「両親も寝ている家でその娘と密会中に娘が死んでしまう」という一点に向って、「カルタの裏」では「宝石が話題になると同時に娘が変な咳をし母親が木犀草の茎を噛みしだく」というホイスト・ゲームの一場面、そしてそれに続く「木犀草のプランターから嬰児の屍体が見つかる」という事実に向って、事前に準備されていたさまざまな布石が収斂していきます。

 ということから考えてみると、ドールヴィイの小説には、大きく二つの相反する力が働いていると言えます。一つは話の本筋からつねに外れようとする力で、もったいぶった言説が展開され、装飾的な挿話が至る所に鏤められるという韜晦癖に表われています。もう一つは、ある物語の頂点を目指して話を収斂させていこうという力、その背後にあって推進力となっているのは、嵐のような弁舌と、人物のストレートで情熱的な感情です。そして前者は後者の力を抑制しながら高めていく役割を果たしていて、両者あいまって物語を長大で重層的かつ重厚な物語に仕立て上げているのです。


 物語のテーマについては、どの短篇にもつねにつきまとっているのが貴族の誇り、矜持という主題です。「罪の中の幸福」では殺されると分かっていながら貴族の名を汚さないためにその運命を受け容れようとする伯爵夫人、「或る女の復讐」では貴族の名を辱めることで復讐しようとする侯爵夫人が登場します。ドールヴィイ自身がルイ十五世の血がつながる貴族の家柄だったそうで、人一倍貴族的なものにこだわっていたのだと思えます。

 登場人物もそうした貴族の誇りを持った個性的な、と言うより奇矯な人物が続々と出てきます。ヴィイの分身と思われる彼らが放つ皮肉、嘲笑、警句、彼らが繰り広げる会話体の魅力が、『魔性の女たち』の魅力だと言ってもいいかと思います。

 彼らの会話は、当時のサロンで交されていた会話がもとになっているようで、実際ドールヴィイは巧みな話術で並みいる人を感動させていたといいます。会話の中に見られる気のきいたセリフは、17世紀のプレシオジテ以来のフランスの伝統だと思いますが、この伝統は20世紀アメリカのハードボイルドの気のきいたセリフに引き継がれているのではないでしょうか。それが村上春樹にも。


 それぞれの本について言うと、秋山和夫訳『魔性の女たち』は、少し文章が持って回って分かりにくい所があります。おそらく原文に引きずられたせいで長文のまま訳していることと、さらに形容詞の直後に読点を入れる癖があり、それが原因ではないでしょうか。また悪口になってしまいますが、目に余る誤植があちこちに残っていて、編集者、訳者は何をしていたのかと思ってしまいます。渡辺義愛の本は、「ホイスト・ゲームのカードの裏側」について本国の評論を踏まえた詳細な解説が付いていて分かりやすいですし、また訳文も比較的こなれた現代文になっています。

 田中榮一と北村光夫の本は時代が古くなるので、訳文も旧仮名遣いで語彙も若干古めかしい感じがしますが、それが興趣を添えているとも感じられます。田中榮一訳は、ところどころ誤訳があるようです。例えば「挽回できなかったのでした(p115)」と訳しているところは他の二人は「負けを取り返すことになってしまう(秋山和夫p263)」「負けをとり戻す(渡辺義愛p55)」と意味が正反対になっています。北村光夫の訳文は、「した」と「しました」が妙に混在しているのが気になりました。また「女の復讐」では娼窟で男女が抱き合う肝心の部分がかなり省略されていました。


 最後にドールヴィイの気のきいたセリフの例証を少し引用してみます。

聖女テレーゼの《死ぬことができないために、私は死ぬほど苦しみを味わっている》という言葉を思い出したものでした(秋山和夫訳『魔性の女たち』p443)

風抜き穴から地獄を垣間見た方が、地獄全体を一目で瞰下したよりも恐ろしく見えるのです(田中榮一訳「カルタの裏」p84)

それは音楽にも人生にもあることですわ。この二つをよく表現するものは、ハーモニーじゃなくて沈黙なのですものね(田中榮一訳「カルタの裏」p146)

機知が彼女の美しさだったのです!(渡辺義愛「ホイスト・ゲームのカードの裏側」p41)