:レオン・ブロワ『絶望者』


                                   
レオン・ブロワ田辺貞之助訳『絶望者』(国書刊行会 1984年)

                                   
 『薄気味わるい話』で辛辣な語り口に驚きましたが、これを読めばまだおとなしい方だったことが分かります。訳者の田辺貞之助も巻末で次のように認めています。「古来フランス文学に例を見ない悪口雑言の啖呵」(p402)。続いてそれをよしとするのでなく、「憤慨の根本精神の高潔さは充分に理解できる。が、怒りにまかせて土方の喧嘩のように言葉が荒く下品で、また途方もない比喩が随所にとびだし、したがって攻撃されているものの分析を欠き、その実体が誇張のかげに薄れてしまった感じを与えるのは惜しまれる」(p406)と的確に評しているのは、ややもすると下品さを称揚したり、訳者が身びいき的発言したりすることがあるなかで、立派な発言だと思います。

 どんな言葉の汚さかというと、糞尿など下半身系の言葉や、差別用語、罵倒用語のオンパレードや、抽象的なものを汚濁にまみれた比喩で語るのが特徴と言えます。例えば、「おこがましくも文芸復興という名をつけられた淫乱の露店が店開きをした・・・千年にわたる中世の恍惚たる忍従は淫婦ガラテアの尻に圧倒された」(p198)、「それはキリスト教的と自称する社会のべとべとな顔へ吐きかける痰にすぎず、その顔はすでに多くの痰を受け、それに耐えて来たのだから、痰がひとつ増えるだけのことではある」(p238)、「彼は恋愛の鼠蹊部や睾丸のヘルニヤのためのささやかな繃帯製造人だ」(p287)といった具合。

 加えるに、読むのにとても難渋したので、途中でやめようかと思ったぐらいです。かろうじて、世紀末の文学者をモデルにしたらしき人物が仮名で出てくるのが興味のつなぎどころですが、その人物に対してもくそみそに罵詈雑言を浴びせています。実名で登場するのもあって、例えば、「フローベールは・・・自分の素晴らしい睾丸から生れた疥癬虫のモーパッサンから粉々にして噛み砕かれた。モーパッサンは文学的に売春の取持ち役と種馬稼業を世にひろめた」(p345)とか、「彼はある日給仕がいなかったので、自分でビールをつがなければならなかったが、そのコップへ腹立たしげに痰を吐くのを見たのさ」(p373)。ここで彼と書かれているのは、当時文学者の溜まり場だった「シャ・ノワール」のロドルフ・サリスのこと。

 読むのに難渋したのには、いろいろ理由があると思いますが、全篇通じてキリスト教カトリック教義がテーマになっているのが、分りにくさの一因。もうひとつの原因は、風景や室内、人物など客観的な描写が少なく、主観的な印象が警句のような目まぐるしく飛躍する文章で語られていて、読者に分かりやすく伝えようという姿勢に欠けるところでしょうか。冗舌と韜晦のみが渦巻いていて、論理や明晰さは感じられません。ひとことで言えば自分本位。

 これはブロワの性格に通じるもののようです。我が強く、言葉のなかに、相手を組み敷こうという思いが溢れています。これは宗教的感情とは異質のものと思いますが。彼の両親が「すべての自惚れを捨てなさい。大きなことをするように神に選ばれたと思ってはなりません」、「そういう自惚れはお前をしまいに奈落の底へ追いおとすだろう」(p397)と言ったというから、ちゃんと見ていたわけです。

 激越という言葉がこれほど似合う人物はいないでしょう。ドールヴィイの弟子だったようですが、冗舌で毒気のある語り口、テーマもよく似ています。読んだことはありませんが、仄聞するところセリーヌなどもこれに近いのではないでしょうか。

 この作品は、小説というよりは、回想あるいはエッセイというべきでしょう。物語としては次のような感じです。ブロワとおぼしき不遇の文筆家が元娼婦のヴェロニカと同棲し、自らの欲望の強さに、シャルトルーズ修道院で修行に励むことにするが、性に合わず1ヶ月もしないまま元に戻る。するとその間ヴェロニカは醜くなるために歯を全部抜くという荒行を行なっていた。次に文学者仲間の食事会へ出て、皆を罵倒する場面が延々と続く。原稿が売れないままにヴェロニカは発狂し貧乏のどん底に落ち込んだあげくの果てに、罵倒した仲間のあいだを金策に駆けずることになる。どうやら実際の体験みたい。

 この物語で印象に残ったのは、ヴェロニカが歯を抜く決断をする場面、それに主人公がヴェロニカを精神病院へ連れて行った帰りに馬車に轢かれてしまい、友に看取ってほしいと手紙で嘆願しながら独り寂しく死んで行く最後の場面。