ハヴロック・エリス『夢の世界』


ハヴロック・エリス藤島昌平譯『夢の世界』(岩波文庫 1941年)


 原著は1911年刊。学生の頃に買って積んでおいた本。旧字体で字が詰まっており、とくに割注のポイントが小さすぎて読みにくいが、文章自体はそれほど難しくなく、夢の事例が豊富で面白く読めました。自分の夢や友人の夢が中心だが、過去の文献からの引用も多い。著者のものすごい読書量はさることながら、夢に関する奇怪な書が昔から多数出版されていることに驚きました。

 訳者の「解説」によれば、著者は医学を修めた方ですが、心理学の専門家というわけでなく、どちらかというと科学ジャーナリストといった位置づけのようです。『古典劇作家叢書』の刊行に関係したり、イプセントルストイなど世紀末の新傾向をイギリス文壇に紹介するなど、文学の分野にも造詣が深いということで、文章にも文学的な味わいがありました。

 夢に関する見方としては、今読んでいるビンスワンガーのように原理的に深く掘り下げるような哲学的手法ではなく、夢の諸要素を全般的網羅的に考察しているような印象がありました。これまで読んで来たのと重複もあると思いますが、いくつか特徴を書いておきます。
①夢の把握の難しさについて書いていること。「夜の幻は既に記憶の中で崩壊し去って、引き裂かれた僅かな霧のかけらとなっていて、組立て直すことは最早不可能」(p14)で、「醒めた瞬間に、知性は、即時の記憶の行為として、個々別々の心像の過半数を捉えて、自発的に論理の法則と現実界の法則に従って、心像を組立てる仕事に取りかかり、それを以て醒めたる世界の劇に出来るかぎり近似した劇を作る」(p19)。

②夢の把握の難しさは、実は現実の把握の難しさに通じていること。「たった今我々の身辺に起こった現実の出来事ですら、その詳細を精確に且つ正しい順序に於いて思い出すことは極めて困難であり実際不可能」(p15)。

③夢の中で見ているものをある論理に従って組み立て直すように、夢そのものが働いていること。「先行する辻褄の合わぬ要素から、首尾一貫した全体を構成しようとする」(p78)。だから、夢の中では問いに対して答えているように見えたけれども、実は答えが先で、問いは答えの前に取って付けられる、というようなことが起こる。また、夢の中で、覚醒時には解決できなかった難問が解ける時があるが、それは実は、夢が啓示したのではなく、夢見ている者が自ら編み出したものなのである。

④夢の中では、刻々と自発的に像が展開していくこと。「我々が目撃する現象は、絶えず一つの画面が次第に消えて他の画面に変わりゆく幻燈映画であって、その現象の背後にある最も肝要なる進行に至っては、我々は常に知り得ずして甘んじなければならない」(p64)。そして、夢の中では思わぬ像同士が結合すること。

⑤外部や内部の刺激が夢になるという事例に多くの説明を割き過ぎているが、「郵便配達のノックでは、その配達する手紙の内容は分からぬと同じように、夢みる人の夢を明らかにすることは出来ぬ」(p33)とも書いていて、刺激が何であろうと、その意識内容は刺激そのものからは離れていることを指摘している。

⑥夢の中の出来事が現実に反映しないこと。成人の場合は、膀胱に尿がたまった結果小便をする夢を見ても、実際にはしない。夢の中で動こうとしても実際には動けない。これは、「精神の機械とも言うべきものが、容易に且つ速やかに動くのは、それが機械の掛合わせを外されていて、全然何等の仕事をも達成していないのに由る」(p130)。→しかし、格闘技の夢を見て布団を蹴り上げたという人を私は知っている。

⑦飛行の夢を見る人が多いこと。これは、「人類の祖先が泳いだり浮いたりするのに足を必要としなかった遠い過去へ、我々を連れもどす」(p164)からだという。その場合、不思議なことに、高い空を飛ぶ夢を見ることは稀であり、低い所を掠めるように飛ぶ夢が多い。地面すれすれを軽くはずんで、はずむたびに10メートルほど滑っていくのである。

⑧夢の持つ力について。「夢にあって・・・覚醒意識の表面下に完全に且つ恒久的に沈んでいた事物や、覚醒意識には何等の跡をも残さなかった極めて取るに足らざる事物までも、我々は思い出すことが出来る」し(p266)、「夢は医家にとっては、覚醒時には未だ知覚されぬ兆候を診断する点で、有効」(p116)である。また詩作や作曲において、夢の中で受けた暗示により、通常では達成できないレベルの作品が生まれることにも言及があった。

⑨夢が宗教において大きな役割を果たしていること。神が初めて人間の前に姿を現わしたのは夢の中だという説(ルクレティウス)があり、また天国や地獄のイメージは、夢の無意識のなかに見出すことができる。神話や伝説やお伽噺は、夢の世界と近似している。

⑩夢から離れるが、現実体験と回想の像を捉える力を知覚と記憶の働きから考えていること。「心が感覚を捉えるのは、回想を捉えるよりも強い力を以てする」のが普通だが、「注意が弛緩すると・・・感覚は回想や像の如く曖昧となって漂々とする。一方これに反して、回想や像は客観的になり、感覚の持つ光彩と浮彫りのような輪郭とを纏って来る」(p306)という境界点の曖昧化が起こる。既視感(デジャヴュ)をこう分析している。それは「今までに起こった何物かではなく、現在ある何物かであり、それが再生する知覚と歩調を揃えて先行するものだと見られるのである。それはその瞬間に起こる瞬間の回想なのである。その形式に関しては過去に属しながら、その実質に関しては現在に属している。それは現在の回想である」(p309)。


 夢については、いろんなパターンや性格についての記述がありました。列挙してみます。
*正常な夢では陽光が欠如していて、夢像は普通鼠色の装飾画(グリザイユ)に似ている。

*色彩のある夢は、ただ一個の物に着いた一つの色彩に限られ、それを強く美しいと感じる場合が多い。

*ある調査によれば、夢では視覚像67%、聴覚像26%、運動像5%、嗅覚像1%強、味覚像1%弱である。

夢遊病は睡眠中に歩行する人間に限る必要はなく、寝言を喋るのも夢遊病の一つの型である。

*続けて見る同じような夢があり、1年を経て見たりもする。これを連続夢という。

*沈鬱な気持の人が陽気な夢を見る場合があり、対照夢という名をつけられている。

*人間は眠っている間はずっと夢を見ているという心理学者もいれば、レッシングのように、夢をまったく見たことがないという人もいる。