:イギリス随筆二冊

///
ウィリアム・ハズリット橋輭石訳『日時計』(關書院 1952年)
ジョージ・ギッシング平井正穂訳『ヘンリ・ライクロフトの私記』(岩波文庫 2003年)


 読んだ順序はギッシングの方が先。懐古趣味がもしやイギリス随筆にもありはせぬかと、読んでみました。思ったとおり、ギッシングはほとんど全篇、自然の美しい描写とともに回想を綴っていましたし、ハズリットにも「夜目遠目」という懐旧そのものをテーマにした一篇や、コールリッジらとの最初の出会いを回想した「詩人たちとの初対面」がありました。

 全体の印象としては、ギッシングの方が本来の随想といった感じで、身辺の雑記や感慨、思い出を語り、抒情味に溢れていて、期待どおりのものがありました。ハズリットの方は半分哲学書のようで、着眼点が面白いですが、若干理屈っぽいところがあるように思えました。『日時計』の解説で、橋輭石も、ハズリットには理智のひらめきや執拗な偏見によって気魄を感じるが、同時代のラムのような温かな人情に欠けるというようなことを述べています。この解説では、イギリス随筆の流れが俯瞰されていて、イギリスは随筆の本場のような気がしていましたが、源流はフランスのモンテーニュにあるようです。


 ハズリットの『日時計』は、訳者が橋輭石というので買っておいたものです。橋間石にも随想集『泡沫記』というのがあって、以前読んで、そのしっとりと落ち着いた文章、思い出を語る文章に感銘を受けたことがあったからです。橋輭石は英文学者であると同時に俳人でもあるからか、日本の昔を懐かしむところがあるように思いました。

 7篇のエッセイが収められていますが、なかでは「夜目遠目」「日時計」「学者の無学」がとくに印象的。「夜目遠目」は遠くのものが快いのはものごとを淡い想像の色で包むからだとしたうえで、視覚よりも、聴覚や嗅覚、味覚の方が記憶を呼び起こしやすいことに注意をうながしています。「日時計」では、日時計、砂時計、掛け時計それぞれが刻む時間のあり方を比較した面白い文章。「学者の無学」は、書物は心の空虚を埋めるだけのもので、真実に触れさせまいとする目隠しの役割しかしていないと、本を読むことの愚かさを徹底的に揶揄していて、耳が痛いことはなはだしい。

 他のエッセイも、旅を題材に想像力の特性を考えた「旅」や、死の恐怖がどこから生じるかを考察した「死の恐怖」、曲芸と芸術の違いをあれこれ綴った「インド曲芸一座」など、テーマが面白く、また考えが深く掘り下げられています。

 ギッシングにも少々見られましたが、おびただしい詩句や聖書の言葉の引用には驚きました。これはイギリス随筆の伝統でしょうか。よく理解できない文章がところどころあったのは、訳者の言い回しが古風なせいもあるかもしれません。

 この『日時計』は、日本の本にしては珍しいアンカットの本。巻末の「作者の生涯」「作者の横顔」のみページが切られているので、前の持主は本文は読まずに解説だけ読んだみたいです。その「作者の横顔」で橋輭石は、エッセーは抒情詩であり、ハズリットは浪漫派の詩人たちが詩でなしたことをエッセーでなしたと言い、浪漫派の心情を丁寧に分析しています。

                                   
 ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』は、「春」「夏」「秋」「冬」の季節が章立てになっており、自然の移り変わりとともに、その折々の思いを記したもので、静かなトーンに満たされていて、どの部分をとっても味わい深い。どこか日本的で、一種の諦観に似たようなものも感じられ、西洋版徒然草という印象もあります。一種の老人文学といえるでしょうか。しかしこれを書いた時ギッシングはまだ43、4歳で、10歳年長のヘンリ・ライクロフトに仮託して、来し方を振り返ったようです。出版されてすぐ、46歳で亡くなったので、自分の死を予感していたのかもしれません。
(そう言えば、吉田兼好徒然草を書いたのは40歳代と言います。)


 書かれている内容でもっとも多いのは、貧乏についての話題で、前半ほほとんどずっと貧乏についての記述で占められています。余程金銭に苦労したと見えて、「六ペンス―これは当時では私にとって大問題であった」(p40)と書いたり、「なんとわずか六ペンスの金を失ったからだというのだ!」(p23)と書いたり、気持ちの混乱が見られます。

 しかしそうした苦労も、現在の幸せな感情に辿り着くために必要だったと一種の悟りの境地に辿りつき、その感慨が語られています。例えば、聞きたいときに音楽が聞けないのは幸いなことで、ときどき思いがけなく聞けた時の激しい喜びに勝るものはないとか(p146)、シェイクスピアを母国語で読める幸せを語っていますが(p150)、この辺りが、つましさにもとづく喜びを称揚する点で、わびさびに近いものがあるように思います。金銭に換算されない大事なものが世の中にはあるという強い考えがあちこちに見られ、この本はそういう意味で、市場からの訣別宣言としても読めると思います。
 
 次に多い話題は、本に関する話題。忘れても読みつづけることが大事と本を読んでいる瞬間の幸福を語り(p62)、持っている本のページの匂いをかいだだけでその本をあてることができると自慢したり(p46)、古本屋の店頭で掘り出し物を見つけた喜びや古本の前の持主に思いを馳せたり、重い古本を電車賃を節約して歩いて運んだりしています。古本愛好者の必読文献といえましょう。                                   

 訳者の平井正穂は巻末の解説で「作者ギッシングの脈うつ心が、躍動する魂が、この人物に流入し、凝結し、われわれの魂の深い根底にじかに響いてくることは否定しえない」(p291)と書いていますが、訳者にこそ作者の魂が乗りうつったような感じがして、とても読みやすく感動的な文章になっていました。


 記憶に残った文章をそれぞれご紹介しておきます。

コールリッジは、つねに、よく知られているものよりも、知られていないもののほうを取ろうとする。/p24

想像が目先きだけの移り気なものだということは、旅をしていると一番よくわかるようだ。・・・その場を過ぎるともうそのことは考えない。それが視野から閉めだされると、記憶からもまた夢のように消え失せるのだ。/p81

近くの物は原寸大に見えるが、遠くの物は理解のいく大きさにまで縮小される。/p82

あるひとつの想いが別のひとつの想いを喚びもどすわけであるが、同時に他のあらゆる想いを排除してしまう。古い追憶を新たにしようとする際に、いわば生涯の網全体をひろげることは不可能で、糸のひと筋ひと筋を抜きださなくてはならぬ。/p83

聞き馴れた声をとつぜん耳にするほうが、いきなり顔に出逢った場合よりも、何かそこにもっと心を動かす感銘的なものがあるように思う。/p105

砂時計・・・ずり落ちるその砂つぶは、我々の生涯の微小な無数の部分を象徴するものとして決して不適当ではないし、うつろな硝子器の中をおもむろに滑り降りて、しだいにその数が減ってひと粒も残らなくなる有様は、これまた歳月が我々からひそかに消えさる姿をよく表わしている。/p128

いまだこの身の存在しない時があったということは、我々にとってもどうでもいいのだ―してみれば、この世の中にいなくなる時がやって来たところで、それがまたどうして苦になるのだ?/p152

ただしかし、我々は誰しも現在のこの瞬間を未来永劫につづけたいとは願っている。/p158

私がきわめてまずい対句を作っても、べつに指は切らなくてすむ。つまり筆を執るすべは、両刃の刃物を扱うのとはちがって、その出来工合いがあいまいなのだ。/p192

書をひもどくを事とする学者に向って、手にする書物を棄ててみずから思索するようにと望むことは、中風病みに、椅子から躍りあがって松葉杖をすてよ・・・と求めるにひとしい。/p227

自分の考えを外部の源にあおぐ習癖は、ちびちび酒を飲みつけていると胃の調子をそこねるように「思考の内部の力をすっかり弱める」ことになる。/p227

以上『日時計』本文より

ワーズワースやコールリッジ、シェリーやキーツが詩壇にうちたてた偉業を、ラムやハズリット、ハントやド・クィンシーはエッセーの分野において成しとげたのである。/p267

ハズリットは、いうまでもなく浪漫派の一人と見られる・・・「夜目遠目」・・・浪漫性の本質、すなわち遠くのものあるいは距てられた物によせる思慕憧憬の情をいい表わしえて妙である。・・・遥かにして隠微なるものを求めてやまないのが人間本来の性情であり、遠隔こそ我々の想像と希望とを無限に生みだす唯一の契機である。浪漫派の人々が、特に月光燈影などの幽明模糊の情を愛し、異郷に想いを馳せたのは、この心理の甘美な魔力の虜囚となったものにほかならない。/p275

以上『日時計』橋輭石による解説より

貧乏がけっして不幸なことではないという議論が多いが、そういう議論そのものが、結局は貧乏が明らかに大きな不幸であることを証明している。(ジョンソン)/p27

あと五度も六度も春がやってくるのを喜び迎え、初めて「きんぽうげ」が咲き初めてからバラが蕾をつけるまでその経過を愛情深く見守れるということが、どれほど大きな恩恵であることか!/p29

頭脳の聡明さと心情の聡明さとを区別しなければならないと思うようになったのだ。そして後者の方をはるかに重要なものとみなすようになったのだ。/p58

自然に流露するものこそ人生の最良の産物だと思う。それが世間で市場価値をもたなかったとしても、それは単なる偶然的なことなのだ。/p70

この辞典をあけて、ページの香がかげるほど本を顔にくっつけると、まだこの本を買いたての頃、初めて利用した、あの少年時代のあの日に、私の心はゆくりなくも誘われてゆく。それは確か夏の日であった。半ば不安、半ば喜びにみちて子供らしい心のときめきを感じながら見た、あの初めてのページの上には、柔らかな光線が確か射していたにちがいなかった。その光線がいつまでも私の心に宿ることになったのだ。/p103

墓石に刻まれた名前を読み、ここに静かに眠っている人々にとって、人生の辛酸も苦悩もすぎさったのだと考えると、深い慰めを私は感じる。・・・この樹蔭の静寂の中で、死者たちは、まだこの世に残るべく運命づけられている者に向って次ぎのような励ましの言葉をささやいているようにみえる。「我らのあるごとく、汝もかくなるべし。されば見よ、我らの静寂を」と。/p178

昨日、私は、美しい古い邸宅へ通じるニレの並木道のそばを通った。木立と木立の間にはさまれた道は、一面に見わたす限り落葉でおおわれていた。まるでうすい黄金色の絨毯であった。さらに進むと、ほとんど落葉松ばかりの植え込みにでた。それは濃い黄金色に輝いており、ここかしこに点々と血のように真っ赤な色が見られたが、それはかりそめのまばゆいばかりの秋色に輝く「ぶな」の木であった。/p213

→自然を描写した文章はとても美しく、たくさんあり過ぎて引用しきれないのが残念です。
以上『ヘンリ・ライクロフトの私記』より