:Marcel Schneider『LE SANG LÉGER』(マルセル・シュネデール『軽い血』)


Marcel Schneider『LE SANG LÉGER』(ALBIN MICHEL 1952年)

                                   
 前回読んだ『LE GUERRIER DE PIERRE』と同じく昨年オデオン広場の近くの古本屋dilettanteで買った本。同じ所有者が売ったらしく、両書とも気に入った文章の横に鉛筆で縦線をつけており、書評や広告の切り抜きを挟んでいました。熱心な読者だったと見えます。

 この本はシュネデールの5冊目の小説作品で、récitと書いてあります。roman、récit、nouvelle、conteの違いがあまりよく分っておりませんが、romanは長篇小説、nouvelleは中短篇小説、conteは短篇小説、récitはお話といった感じでしょうか。

 3つの部分に分かれていて、1部と3部が大晦日から新年にかけての同じ時空間のできごと、2部がその何年か前に現実とは少しずれた空間で起った夢のような話になっています。簡単にあらすじを追うと、
1部:語り手私がユリウスという強引な友人に連れられて、大晦日の夜のパリを彷徨い、とある年越しパーティに紛れこむ。玉突きする男、ユダヤ教の一団、双六に熱中する家族、隅っこで愛を囁く恋人たちのなかを、仮面をつけたウェイトレスがパンチを注いで回っていた。相席の老婆と連れの女がつかみ合いを始めマネージャーにつまみ出されるなどドタバタ喜劇の様相。主人公は母親や学生時代の友人デニスの回想に耽る。そこへまた新しく母娘が相席となる。私は娘ニセットに一目惚れしナデシコを、ユリウスは母フラヴィが気に入り城館のフィギュアをプレゼントした。マネージャーはその館を見て、昔魔女が住んでいたモーヌの館だと言う。

2部:私は15歳のとき母親から社会勉強するようモーヌの館に奉公に出された。そこには錬金術に凝る老伯爵と厳格な神父、呆けたような若伯爵と蒼ざめた顔の伯爵夫人、その娘メリュジーヌらがいた。館は不思議な構造をしていて、母屋の真ん中に井戸があり普段は涸れているがある時溢れて洪水のようになるという。老伯爵と神父が神学問答を戦わせるなか、私はメリュジーヌに仕える騎士となって、若伯爵夫妻の不幸の原因を探る。そこには神父の策謀があるようだった。伯爵夫人は神父に井戸の中に吊り下げられ神明裁判を受けるが、3回目に紐が切れて夫人は井戸の中に消える。私はメリュジーヌに代わって神父を刺し殺す。

3部:年越しパーティで新年を迎えた後、ユリウスがフラヴィとモーヌの館で結婚すると言いだし、車に乗って4人で館へ行く。果樹園は草ぼうぼう壁は蔦で覆われ天井は崩れ落ち井戸は埋まっていた。ユリウスとフラヴィがなかに入ると突然館は崩れ落ち、井戸の底から黒い水が吹き出てきた。ずぶ濡れになったフラヴィを助け出すがユリウスの姿は遂に見つからなかった。

 省略した部分に、象徴的な深い意味のある挿話がいくつもあり、この物語の大事な部分をカットしてしまった気がします。主人公がニセットに贈ったナデシコは、回想のなかで母から渡され、回想から覚めたあと気がつくとテーブルの上に乗っていたもの。「青い花」のような象徴的な役割をしているように思われます。また、やはり回想のなかで友人デニスからもらったリボンをニセットが見て驚きますが、それはリボンに記されていた「アンドロメダ」がニセットの本名だったからです。運命的な符牒を感じます。

 また1、3部と2部の人物が照応しています。私は同一人物、ニセット=メリュジーヌ、フラヴィ=伯爵夫人、パーティのマネージャー=若伯爵、ユリウス=神父でしょうか。フラヴィが洪水のなか助け出されるのは、井戸に沈められた伯爵夫人の復活を意味しています。この作品のタイトルは、ニセットが呟く「血が軽くなったわ」というセリフが出所で、妖精の血は軽いというところから来ています。この物語全体にメリュジーヌ伝説が背後にあり、モーヌの館には、『モーヌの大将』が迷い込んだ館のイメージがあるようです。

 いちばん面白かったところは、モーヌの館の不思議な構造です。五角形をしていて五つの塔があり、母屋の中央にある井戸のまわりには薔薇の花弁のように敷石が広がり、壁はとても高く円天井になっていて、上にも井戸のような空間が広がっているという印象。壁に沿って螺旋階段が樹に巻きついた蛇のように円天井の天頂まで達していて、蛇の頭の部分が井戸の真上に位置する、というこの内部の描写は圧倒的(p140〜141)。

 また、次に魅力的なのは登場人物で、涎を垂れ流し続ける不気味な若伯爵と蒼ざめて少しの物音にもびくつく伯爵夫人の奇態な様子(p190〜191)、隠秘学に熱中する樽のように太った老伯爵とサヴォナローラを思わせるエキセントリックな神父の対決(p163〜166、p171〜174)など、グロテスクで謎めき、ドラマティックで、どことなく「ヴァテック」を思い出させます。私に対して高飛車な友人ユリウスは、前回読んだ『LE GUERRIER DE PIERRE』のクノと同じような存在でしょうか。

 ただ全体を貫いているトーンがファンタジー的で、不思議なことが偶然のように起こり、すべてが都合よくハッピーエンド的に動いていく、この能天気さはあまり好きではありません。またブリヨンに比べてとてもキリスト教臭が強いのも気になります。デニスとの同性愛的な格闘の後、陰毛が生えてきて神の裁きを受けたと感じたりする(p72)など原罪の感覚があったり、また自問自答する言葉も神学問答のようなところがあります。ブリヨンはもっと異教的で大らかです。オカルトに凝った老伯爵と神父の問答が延々と続きますが、シュネデールの学生時代の生硬な議論をあまり加工せずに見せているという感じがします。