毬矢まりえ『ひとつぶの宇宙』


毬矢まりえ『ひとつぶの宇宙―俳句と西洋芸術』(本阿弥書店 2015年)


 この本は、海外俳句についてはあまり触れられていませんが、俳句を西洋芸術や西洋思想の視点から語ったものなので読んでみました。著者は国際俳句協会にも所属されているようです。少し若書きの印象がありました。幅広い視野を持って、自分なりの知識と俳句とを関連づけ考えようとしているのは好感が持てますが、やや上っ面をなぞっただけで、深く掘り下げるまでには至っていないという感じがしました。

 面白いと思った論点はいくつかありました。初めに、「数学の公式は短かければ短いほど美しい」という数学者の言葉を引用して、俳句の簡潔さに着目しています。タイトルの「ひとつぶの宇宙」という言葉は、本文にも引用されているウィリアム・ブレイクの詩の一節「To see a World in a Grain of Sand(世界を一粒の砂の中に見)」から取られていますが、この極小を極大と重ね合わせる表現は、ほかにも「神は細部に宿る」とか「一つの音に世界を聴く」とか聞いたことがあります。言葉数の少ない俳句だからこそ世界の広がりが表現できるという意味を込めているようです。ただ、定型の問題に少し触れながら、定型の意味を深く考えることはせず、定型、無定型、自由詩にかかわらずただ短ければよいというふうに、曖昧なまま文章を終えているのは不満が残ります。

 次に、子規が写生を提唱したのと、プルーストが自然に対して克明な描写をしたのが、同時代に起った現象であることに注意を喚起し、ともに自然に向き合いながら、片方は短く、片方は長大な文章という正反対のベクトルに向かったと、俳句の簡素さと西洋の饒舌とを対比しています。ただ両者は同じ芸術家精神に基づくものとし、その説明に、フラクタル理論を援用して、子規がフラクタルの原形とも言えるミクロの世界、プルーストがそれを展開したマクロの世界を追求したというような言い方をしていますが、これは少し荒っぽいように思います。

 後半の季語についての章では、ユングの説を援用して、季語というものは日本人の集合的無意識の世界だと指摘しているのはなるほどと思いました。これまでそういう言い方をした人はいなかったのでしょうか。続いて、ソシュールの言語論を援用して、季語は豊かなイメージを持つ記号であるが、今日、シニフィアン(言葉の外形)はそんなに変化していないのに、生活の近代化とともにシニフィエ(意味される内容)がどんどん変化して、両者が乖離していると言い、こうした状況を「失季」の時代だと指摘しています。これも頷けます。

 あるイメージと別のイメージを並置することで、新しい世界を創出するエズラ・パウンドの詩法を説明しているくだりでは、「うつくしきあぎととあへり能登時雨」(飴山實)という句が引用されていました。「冬の雨が降る。そこに傘をさした和装の女性が近づいてくる。すれ違うその時、美しい顎のあたりに俳人の視線が一瞬注がれる。ほんの束の間の美しい顔との出逢い」(p127)という鑑賞文があり、句の味わいがよく分かりました。この句には「傘」といういちばん重要な言葉が省略されているのがポイントで、これが俳句の醍醐味だという風に感じました。いちばん大事なものは隠されているわけです。