霜山徳爾関連の二冊

  
霜山徳爾『人間の限界』(岩波新書 1975年)
畑島喜久生『霜山徳爾の世界―ある心理学者にかんする私的考察』 (学樹書院 2006年)


 『仮象の世界』に衝撃を受けて、さっそく関連本を2冊ネットで注文して読みました。『人間の限界』は、霜山徳爾自身の著作で、『仮象の世界』と同じ年に刊行されたもの。『霜山徳爾の世界』は、霜山徳爾が理事を務めていた東京保育専門学校で、校長として5年ほど一緒に仕事をした著者が、霜山氏の人柄に感銘を受けて書いた一種の霜山論です。


 『人間の限界』は、第一章から第九章までありますが、『仮象の世界』と内容が重なっている部分がかなり多く、第六章まではほとんど読んだことのある話でした。二冊は同じ年の出版で、こちらの方は刊行月が1月で、『仮象の世界』は12月となっています。『仮象の世界』とも共通するひとつの特徴は、本人も「もとより鶏肋(けいろく)の閑文字であり」(p223)と書いているように、学術書ではなく随筆風で、論理的というよりは、引用をちりばめながら雰囲気で筆を進めていくという一種の語りの芸があることです。若い人が引用の出典を調べながら読むと、たいへん勉強になる本だと思います。

 『仮象の世界』と重複しない部分での叙述をいくつか紹介しておきます。私が忘れているだけかもしれませんが。
①地平線に関する言及
ア)地平線に接する時、異様な胸の高鳴りを覚えるが、それは未来のイマージュによく斉合するからである。夜は地平を喪失せしめる。また地平は、触れることも侵すこともできない。あらゆる囲いは取り去ることができ、あらゆる辺境は踏みこえていくことができるが、地平は乗りこえがたい境界として現われる。

イ)昔の人が、海のかなたに浄土があるという補陀落信仰に惹かれたのは、例えば、熊野の山の上から瑠璃色の水平線を見渡した時、何か抵抗できない促しを感じたからに相違ない。

蒼穹に関する言及
ア)蒼穹は、その下でわれわれが生きる空間として馴れ親しんだものであるが、同時に根源の空間である。蒼穹の方向は、あらゆる上昇の方向であり、高次で、崇高、至上なものとなり、自然に神性の一属性となり、超越的なもの、絶対的現実、永遠性という神聖な威光を帯びる。

イ)各地の民族神話に出現する天人、天女、精霊、天使というイマージュは、天に存在することへの人間の希求の投影したものである。根源的な自由、ないし軽さというものにわれわれは魅せられるのだ。各民族の天に関する豊饒な神話を調べると、それらがきわめて類似した特性をもっていることに気付く。

③祈りに関する言及
誰でも祈りという言葉に対して、心の底に深くこだまするものを肌で知っている。祈りは必ずしも宗教的なもの、神に関連したものではない。純粋に人間的なことであり、ひとつの問題提起なのである。祈りは淡い希求に近いものであり、もともと空しいものである。人生にとって重要であるのは、ただ希求し、祈ることができるという事実だけである。

④遊戯について
ア)遊戯と宗教的な典礼とは親和性の高いものだが、異なる。聖なるものは超地上的であり、遊戯的なものは脱地上的である。宗教的なものは畏敬と不安にみたされているが、遊びは明るく軽やかな解放である。

イ)動物にはできず人間だけが行なえる逍遥というものがある。逍遥は精神の自由な飛翔が伴う精神的な遊びである。しかし何と今は逍遥するゆとりがないことだろう。


 『霜山徳爾の世界』は、霜山氏の生涯を概観し、研究者教育者としての経歴、著作一覧を掲げ、霜山の著作の中から著者が重要と思う一節を引用しながら、霜山氏の人となり、業績を紹介しています。筆致は極めて謙虚。読後の感想としては、畑島が「先生の〈魂〉の深奥に巣喰っているのは、『昭和大戦』だと思われる」(p3)と指摘しているとおり、戦争の時代に巻き込まれた過酷な体験と、戦争で卑怯な振る舞いをした者への憎しみが根底に深くあることがよく分かりました。

 戦争に関連した記述としては、次のようなものがあります。
①東大の学生時代に、すでに戦況は切迫していて、学生たちは死を覚悟していた。「私は死を少しも恐れなかった。むしろ死は甘美なものだった。どこか遠い異境の地で、行方もしれず果ててしまうことが、むしろ望ましい運命であるような気持もあった」(p31)。

②卒業と同時に海軍に志願し、清水幾太郎宮城音弥らが顧問の実験心理研究部に配属され、戦時標準船の迷彩、夜間視力の増強訓練、暗号の解読、デマの効果等に携わったという。

③霜山氏が転勤で空母「蒼龍」を去ったあとに、東大で先輩だった海軍中尉が同艦に乗りこんでいたが、米軍の雷撃を受けて沈没した。乗組員全員に救命具が用意してあったが、予定外で便乗していたもう一人の海軍中尉の分がなかったので、先輩の中尉は彼に自分の救命具を与え、艦と運命を共にしたという。

④霜山氏が、戦争末期に、第五航空艦隊の特攻機の基地である鹿児島鹿屋に出張した時、少年航空兵、予備士官から順に、旧型機、練習機を使って特攻に出撃させ、海兵出身者を温存させていたのを見て、卑怯な作戦と書いている。それを止めることができたのは、唯一昭和天皇であるのにそれを黙認し、戦後その責任を取ることもなく悔恨の言葉ひとつなく平然と天寿を全うしたと、怒っている。そして自分より2、3歳若い学徒出陣の士官がひとりずつ「ごきげんよう」と挨拶して特攻機に乗り、飛び立っていくのを見送ったが、その時二人乗りと知っておれば、同乗を申し出た、そうなれば、妻は裕福な家に嫁いで貧乏の苦労を味わわずに幸せに暮らせたものを、と嘆いている。

⑤戦後、旧制高等学校の教授となった最初の授業で、学徒動員から生還しまだ軍装のままの学生たちを前に、日本の復興について話していたとき、蒼ざめ汚れた軍装の学生がもう一列座っていた。戦死した学生の姿を幻視したのである。

⑥次のような怒りの短歌も書いている。
「生きて虜囚のはずかしめを受けず」と命じし宰相、小さきピストルで狂言自殺をして虜囚

 生涯に関しては、代々池田藩の藩校「閑谷学校」の儒者の家系で、祖父は、閑谷学校が明治の近代化の流れに取り残されていくのを嘆いて、割腹自殺をしたといいます。古典の素養があるのも頷けます。閑谷学校には、3年ほど前に牛窓旅行の際、立ち寄ったことがあります。