:バルトルシャイティス著作集2『アナモルフォーズ』


ユルギュス・バルトルシャイティス高山宏訳『アナモルフォーズ』(国書刊行会 1992年)

                                   
 見る角度を変えて見ると、正面から見たのとまったく別の像が見えてくるというアナモルフォーズの絵をはじめて知ったのは、ちょうど出たばかりの澁澤龍彦の『幻想の画廊から』においてでした。以後、種村季弘の『遊びの百科全書:アイトリック』などにも出てきましたが、いずれもこのバルトルシャイティスの本を種本にしていました。それでこの本が出版された時には即購入しましたが長らく読んでおりませんでした。(じつはそんな本が山ほどあります。)

 訳者の高山宏が最後の「解説」で書いている著作集翻訳のいきさつによれば、当初澁澤周辺の人が持ち込んだ企画が頓挫したのを高山宏が受け継ぎ、その際澁澤氏と編集内容について語り合う機会があったということです。20代の若者と澁澤龍彦の出会いの図は羨ましくなるような話ですが、この人は英文学畑の人なのにフランス語も訳せるほどの力があるというのは凄い。一生懸命フランス語を読んでいるのに全然上達しない私はいじけてしまいます。

 この本は古代ギリシアアナモルフォーズの誕生から現代にいたるまでを歴史的に俯瞰し、地域的にも中近東から中国までカバーしながら、円筒、円錐、三次元などさまざまなタイプのアナモルフォーズを網羅しています。原理的技術的な考察も加え、さらに哲学的な背景にも筆が及んでいるのは、さすがバルトルシャイティスならではと思います。収縮する男性の局部に描くアナモルフォーズ絵へのほのめかしがあったりするのはご愛嬌でしょうか。

 この本(最初は1955年に出版されている)は、シュルレアリストたちによってアナモルフォーズ・リヴァイヴァルの端緒が切られたのを受け書かれたものと思われますが、70年代にピークを迎える流行を形成するのに大いに寄与したにちがいありません。

 これまで漫然とこの種の絵を見てきましたが、今回初めて、アナモルフォーズは歪められた遠近法だということを教えられました。というと偉そうに聞えますが、実はまだ本当のところ漠然としか分かっていないのです。というのは、原理を図示したものがたくさん出てきますが、その説明が分かりにくいうえに、図面のアルファベットが印刷上の問題で潰れていて見えず(とくに円筒アナモルフォーズの図)、何が何やら分からないからです。

 その原理に基づいてアナモルフォーズを描く技法がいろいろ出てきますが、そうしたものはコンピュータのもっとも得意とするところだと思っていたら、案の定「正確かつ迅速に描き出すことを誇るコンピューターこそ、その新手段なのに他ならない(p302)」という記述が出てきました。探して見ればアナモルフォーズ描きソフトというのもあるかもしれません。

 中国でも、職人芸で鏡を見ながら手書きで描いていくやり方でアナモルフォーズ絵が沢山描かれていて、西洋の宣教師たちをびっくりさせたことが書かれています。他にも西洋人を驚かせたのは、自動機械や鏡の精巧さや、大道芸の奇天烈さだったようです。

 現代の記述になると(現代に関する章は1984年の改版時に付け加えられたもの)、70年代のアナモルフォーズ大流行のなかで、一種のアナモルフォーズ原理主義が跋扈している様子がうかがえます。アナモルフォーズアレゴリーとの類縁が指摘されたり、精神病理と比較されたり、詩や批評がアナモルフォーズそのものであるという論や、ダンの詩あるいはH・ジェイムズの作品がアナモルフォーズと結びつけられた説を紹介しています。

 この本は次から次へと事例の絵が出てきて、一種の画集のような趣もあります。付録に鏡面のようなピカピカした銀紙がついていて、それを丸めて実際に円筒アナモルフォーズ絵を体験できる楽しみもあります。

 バルトルシャイティスの欠陥と言えば、多くの歴史的事実や例証を網羅的に連ねるあまり、それに熱中してしまい、大事な本質の部分が一瞬どこに行ったか分からなくなったりする(これは私だけかもしれない)ことです。これはいま読んでいる『鏡』においても同様のことが言えます。


 印象に残った文章は、

理性を通じて狂気に到るほど危ういことはない(コルネリウス・アグリッパ)/p3

芸術家たるもの、美しい形をうみだそうと思うのなら、正しさなどというものを意に介せず、自然の形態ではなく彼が見て最も適切と思える形態を賦与すればよいのだ。もはや現実ではなくて、一個の虚構こそが問題なのである/p13

遠近法は正確な表象の具ではなく、一個のウソなのだ・・・つまりは懐疑に寄与するのだ/p98

科学的実験や版画の遊び、自動機械劇場や早替わり絵画が、哲学者たちのイリュージョン狂いと、同じ地点で出会い、同じ方向に向って発展する/p100

我々が科学と呼んでいるものは錯誤、虚偽以上のものではない(アグリッパ)/p144→原発事故を思い出すではありませんか。

これらすべての展開の広大な背景には、現実というものをめぐり、世界の仮象性をめぐる思惟、思弁がある。これらの視の法則に深く沈潜したのは数学者、技師、天文学者、音楽家そして哲学者といった人々であった。彼らはすべて普遍的な人文主義の伝統に掉さしていて、一切を撚り合わせ諸学諸技芸を統一しようとし、時にはそれらの実証的な面に、そしてときには幻想的な面に目を向けた。怜悧な数学的精神の持ち主、自動機械制作者、論理学者などが解釈を加えることで、逸脱遠近法のパラドックスは時代の高邁な諸観念と結びついた。一方、夢想家や空想三昧の詩人の手にかかると、精密一本槍のはずのその方法に幻想味が蘇えった。・・・デカルト主義者たちが結局、それらのもっとも非合理な発展を鼓吹したのである/p167

イエズス会士の手中でアナモルフォーズは、いわばキリスト教教化の具と化したのである/p246

隔たりこそがそこにアレゴリーをうみだす(マルゴラン)/p311

これこそ(アナモルフォーズ絵のこと)・・・世界の見かけの上での混沌、その隠された正義の様ではないでしょうか。御子イエスへの信仰のみがわれらに開示したまう或る特定の視点に立つならば、その時にこそはじめてそれらは画然として見えてくるのであります(J・B・ボシュエ)/p329