:澁澤龍彦の文学論集二冊

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澁澤龍彦『悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人』(中公文庫 1982年)
澁澤龍彦澁澤龍彦西欧文芸批評集成』(河出文庫 2011年)


 しばらくぶりで澁澤龍彦の本を読みました。文学系のものばかりですが、なぜかというと、今後の古本購入書目のヒントになるかと思ったからです。があまり参考にはなりませんでした。

                                   
『悪魔のいる文学史』の中のいくつかはユリイカの連載中に読みその後単行本で読んだと記憶しています。以前読んだ時は初めて聞く名前ばかりで感激したものですが、そうした作家の翻訳も多数出ている現在、以前のような驚きはありませんでした。

 この一見バラバラなような文学史を通じて、なにか一貫するものが垣間見えたような気がします。ロマン主義象徴主義シュルレアリスムの流れはもちろんですが、サド翻訳と研究から出発しただけあって、文学は反社会的な存在であるべきだという考え方が染みついているようです。また文学が隠秘学錬金術と通じるものとして捉えられており、そのキーワードは象徴ということのようです。

 以前読んでいたはずで覚えていないのは情けなかったですが、エリファス・レヴィの「コレスポンダンス」の詩の素晴らしさ、グザヴィエ・フォルヌレの箴言の切れ味のよさ、エルヴェ・ド・サン・ドニ侯爵の夢への没入ぶり、ランボーがシャルル・クロスの飲み物に硫酸を入れるなど本当に乱暴狼藉を働いていたことなど、あらためて知ることができました。


澁澤龍彦西欧文芸批評集成』は幻想文学とエロティック文学について書かれたものを新たに編集したものですが、おそらくどこかで読んだことがあるのが大半と思います。(『悪魔のいる文学史』とは「小ロマン派群像」が重なっていた)

 幻想文学についての何篇かは、さすがに広い目配りかつ幻想文学の核心を捉えた好論文。エロティック文学について書かれたなかでは、直接的にポルノを論じていない「紋章について」「匂いのアラベスク」の二篇が、余情を感じさせて○。

 昔は澁澤の書き方に、それまでの文芸批評家にない軽さと自由さ、それに反社会的な雰囲気を感じて、一方ならず崇拝しておりましたが、いま読んでみると、やはり大家然とした文章に驚いてしまいます。その道のプロとしての矜持がそうさせるのでしょうか。ファレールについて「多くは通俗的なメロドラマで、今後、彼の名がふたたび脚光を浴びることはまずあるまい」(p98)などと、本当にすべて読んだのかと思ってしまうぐらい自信たっぷりの口ぶりです。またフローベールを客観主義写実主義の一言で片づけて(p84)よいものでしょうか。

 こうした断定的な書きぶりは何かのコンプレックスの裏返しではないかと思わせられます。澁澤には文章に対する讃嘆や、詩的技法に関する言及がまったくなくもっぱら作家の生き方や思想だけを問題にしていることと併せて考えてみれば、やはり旧世代の批評家という気がしてきます。かえって、戦前の仏文学者のほうが、社会と親和的でゆったりとしたユーモアも感じられ好感が持てると思うのは、やはり自分が齢を取ってきたせいなのでしょう。


恒例により印象に残った文章。

目に見える言語で形づくられた/この世は神の夢だ。・・・自然の一切は決して沈黙してはいない。/星々には文字があり、/野の花には声がある。・・・すべての音が一つの反響(こだま)でしかない声・・・(エリファス・レヴィ「コレスポンダンス」)/p9

「謝肉祭のとき、ひとはその仮面の上にボール紙の顔をつける。」「しばしばいわれることだが、もし神が遍在しているのならば、人間はどこにいればよいのだろうか。」(フォルヌレ)/p40

死の崇拝は、バイロン風の吸血鬼信仰を重要な霊感の源泉の一つとした小ロマン派すべてに共通しており、それは遠く、一九世紀末のデカダン作家たちの精神風土にまで反映している/p51

エルヴェの確信するところによれば、ひとはだれでも練習を積めば、夢を意志的に見ることができる。つまり、見ようと思えば見られるし、自分の意志によって夢を修正することもできる/p143

ペラダンの知的誠実は否定しえない・・・もし彼がだれかをだましているとすれば、まず第一に自分自身をだましている(ロベール・アマドゥー)/p191

詩的直観のみが、「永遠の神秘のなかに見えない形で見える、超感覚的実在の認識としての、グノーシスの道へ復帰させる糸を私たちに供給する」(ブルトン『吃水部におけるシュルレアリスム』)/p296

以上『悪魔のいる文学史

現象を合理的秩序の体系として整理する科学と、原因と結果に関する決定論的認識が勝利を占めた後に、はじめてファンタスティックという観念が生じた。一言をもってすれば、人間が奇蹟の可能性をほとんど信じなくなったとき、ファンタスティックが存在理由を示し出したのである/p19

不可能性こそは、あらゆる想像的なものの母胎であり、最大にして最後の不可能性、すなわち死こそは、あらゆるファンタスティックの母胎だったのである/p21

ファンタスティックなものが惹起する恐怖という情緒の裏面は、したがって、ノスタルジアであると結論しても、もはや奇異に思われることはないであろう。死は恐怖であると同時に、隠された願望である/p22

ドイツの名高い考古学者フルトヴェングラーが、ミュケーネ時代の王の墓を発掘していたとき、彫刻のある石棺の蓋をとったところ、中から馥郁たる香がたちのぼってきたというようなエピソード/p281

以上『澁澤龍彦西欧文芸批評集成』