:畑耕一の二冊

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畑耕一『戯塲壁談義』(奎運社 1924年
畑耕一『愚人の祭壇―変質文斈者として』(大學書房 1927年)


 前回に引き続き畑耕一を読みました。この二冊はまだ若い頃の出版で、大正から昭和にかけての古い本。これまでは本は読めればよいと、汚れはあまり気にしないほうでしたが、二冊ともかなり古びていて、とくに『戯塲壁談義』は汚いことおびただしい。これでは寝転がって本を上にして読むのはとてもできないので、私にしては珍しく机の上に置いて、そおっと覗きこむようにして読みました。

 二冊とも、前回と同じく、幅広い題材で縦横無尽に筆を踊らせているという印象。おそらく『戯塲壁談義』が著者の最初の出版だと思いますが、そのせいか、130ページぐらいまで本格的な演劇論が占め、最後の90ページが劇評と、本業の演劇関係の記述が多い。かなり理屈っぽい演劇論が展開されております。『ラクダのコブ』や『愚人の祭壇』に「また理屈になってしまった」という言い訳めいたフレーズがよく出てきたのは、その反省からでしょうか。

 そういった理屈を忌避する態度や、古今東西の幅広い薀蓄を披露しつつ、自分の好悪を軸に論を展開したり、自分の好きなものだけを論じるやり方は、内容は別にして、どこか澁澤龍彦の書いたものを連想させるところがあります。『愚人の祭壇』の「学問上の偽物」などは澁澤が書いたと言われてもそうかなと思ってしまいそうです。


 『戯塲壁談義』は、畑耕一の独壇場で、当時の日本の演劇界への古典、新派も含めた幅広い目配りと、古今東西の戯曲や演劇理論の知識をもとに、演劇論が展開されています。女性の嫉妬心、復讐心や、女性の目覚めをテーマとした演劇について、四谷怪談論(怪異と黄昏の関係に触れたところが面白い)、俳優の心構え、個々の役者に対する批評など。私には歌舞伎や役者の素養がないので、最後の劇評はよく分からず、飛ばし読みをしてしまいました。

 この本のなかでは、盲人が列をなす絵を見て、その状況をセリフ入りで再現させ、最後に厳粛な場面での笑いの質を考察する「三つの『群盲』」が傑出していると感じました。次いで、江戸時代の残酷劇の創意工夫を評価した「殺し場に就て」、綺堂の戯曲に神秘主義象徴主義を発見する「綺堂物の研究」、宝石が芸術に寄与しているのはその神秘性だという「宝石の謎と詩」、蒐集家の発掘の不思議を語った「死面蒐集奇談」、子どもの頃見た「うつし絵」の魅力を述べた「影絵の話」、怪談の中の笑いの要素を考えた「怪談趣味の新趣向」、目、口、耳と比較しながらの「鼻のユーモア」が面白かった。よく見ると、演劇以外の話題がほとんど。

 古今東西の文芸作品や絵画の話が出てきますが、たとえば、「顔」について書かれた文章(p214)のなかで、いろんな詩人が顔について表現した詩句が引用されています。どうしてこういった表現を覚えているのか、あるいはどこからか引き出してくるのか、感心してしまいます。澁澤などにも共通しますが、記憶力が抜群なのか、それとも普段からテーマごとにノートをつけるなどの方法を身につけているのでしょうか。

 「大阪の文楽座でも見物は、まづ、頭の禿げた御隠居か、小皺のよったお家はんばかりで(p54)」といった文章などを読むと、昔から文楽は若い人に人気がなかった様子が分かります。また、民衆による新聞報道ということに触れて、「民衆は往来を歩いていて自動車の衝突とか火事とか其他あらゆるアクシデントを目撃した時は、直ちに新聞社へ報告する義務があるのです(p265)」というのは、最近、スマートフォンで撮影した動画がテレビをにぎわしていることを思い出させます。
                                   
 『愚人の祭壇』は、タイトルの意味が分かりにくいですが、「小序」にその趣旨が書かれていて、これが面白いので引用します。「愚人の祭壇―こうより呼びようのないこの随筆集は、私のゆがんだ趣味を、みずから間違って興がる意味にほかならない。私は、いま、愚かにただひとり笑う。トランプの、仲間はずれの時、わがかたわらに来りたまえ」                                   
 なかでは、新聞連載小説が自分の運命を告知していると恐れる男を描いた「自分の影を買う男」、中国奇談の続きの「首」、涼しいという言葉を追求した「夕涼先生」、化物の名称を愉快がる「化物の形容」、神話の神々に付帯した色を考察した「色彩と神々」、歴史上の偽書や偽文書事件を紹介した「学問上の偽物」、怪談会の提要を語った「怪談会」、小説的な趣のある「婆妖」、奇談の続き「鬼相」、猫、犬、豚、馬、山羊、蝙蝠の怪異が出てくる「西洋の魔性の動物」が面白く読めました。


 いま『「装飾」の美術文明史』という本を読み始めて、筋道を立てて物事を解明しようというタッチの文章に興奮を感じています。それに比べると、畑耕一の文章は、閃きと博識をちりばめただけの文章だと感じてしまいます。それはちと悪く言いすぎかしらん。怪異趣味と詩文への愛着には共感するところが多いですが。いずれにせよ早く『怪異草紙』を入手したいものです。