:R・ウィトカウアー大野芳材、西野嘉章訳『アレゴリーとシンボル―図像の東西交渉史』(平凡社 1991年)


 ヴァールブルク・コレクションの一冊。堅牢で重たい印象があり長らく寝かしておいた本。


 バルトルシャイティスの『幻想の中世』の東方からのイメージの伝播への関心と共通の部分が見られるので読んでみました。印象を言えばバルトルシャイティスのほうが奇形に淫しているのに対し、こちらは少し学者然としています。


 この本のざっとした内容は、訳者あとがきにうまくまとめられていますが、前半では、「鷲と蛇」、怪物など、東方起源の図像がどのようなかたちで西欧の美術へともたらされたか、後半では、ルネサンス以降に好まれた「好機・時・美徳」、「忍耐と好機」、「死と復活」、「文法」などといった寓意的なモティーフを取り上げ、他に、エジプト象形文字が間違って伝えられたことによるイメージの伝播を扱った八章、エル・グレコが描いたさまざまな人物に表れる同一の身振り表現に神秘主義思想の顕れを洞察する十一章、そして象徴表現についての原理的な考察を展開する最終章という構成になっています。

 東洋の迷信的な怪物を描く際、挿絵画家がテクストから離れて、過去の挿絵を参照して描くことで挿絵の伝播が行われ、読者の期待を裏切らないように絵を描き換えてゆくという恐ろしい成り行きが語られています。そういうことが続いたために、17世紀頃まで、まだ東洋には無頭人や片脚人など架空種族や怪物が存在するという言説が広まっていたというのです。(どんな怪物かの例として挿絵を1ページ抜粋しておきます)

 寓意画を扱った章では、「好機(前髪しかない女性の姿で表される)」が登場する絵を取り上げ、「時(しばしば父の姿で表される)」や、「後悔(獅子の姿やときにはヴェールを被った姿で表される)」、「真理(波のなかから現れる)」、「美徳(運命を従えている)」、「運命(豊饒の角と蛇を持つ)」、「忍耐(片足をつながれ腕を胸の前で組む姿で表される)」などの寓意表現との関係を解き明かしています。

 その関係をまとめると次のような感じでしょうか。有徳の士は<時>が天に飛び去ろうとするあいだに、<好機>の前髪を摑むが、邪悪な人々は後頭部が禿げていることを知るのが遅く好機を取り逃がし<後悔>に苛まれる。<真理>は<美徳>の洗練されたかたちであり、<美徳>は悪意ある<運命>を懲らしめる。そして<忍耐>という<美徳>により<好機>は無事捉えることができるのである。(書いているうちに訳が分からなくなってしまいました)

 15世紀の学者がエジプトのヒエログリフ表音文字表意文字と勘違いしたことから、「占星術師を示すには時計を食べている男を描く」(p223)といったような恐ろしくへんてこな図像表現となって後世に受け継がれていきますが、著者はそれらの努力が象徴表現の技法を磨き、キリスト教思想を象徴する技法へと開花したことを積極的に評価しています。

 終章では、ランガーの「芸術は論証するのでなく事物を見せるものなので、伝達するのではなく明示するのだ」という考えに異論を唱えていますが、私はどちらかというとランガーにつきます。ウィトカウァーが興味の対象としている中世からバロック期にかけての絵画の方が特殊であって、絵の内容に何か伝えたい意味があると考える方がおかしいと思うからです。なによりも、芸術の意味や役割が時代とともに移り変わってきたということが言えると思います。


以下、印象深いフレーズを引用しておきます。

鳥は死者のトーテム表徴であり、鳥に征服される悪霊は蛇やトカゲによって表される。・・・鳥が、蛇のかわりに三日月を鷲摑みにしている木彫も存在し、そのことは鳥と蛇の闘いが、太陽と月、光明と暗闇といった古くからある宇宙的抗争とも結びついていたことを示している/p36

アウグスティヌス・・神が架空種族を創造したのは、われわれのあいだに現れる異形の誕生が神の叡智の業の失敗であると考えさせぬためである/p93

ヴェネツィア人は、冷たい色彩を用いたフィレンツェ人とは対照的に暖かい色彩を用いたとか・・・こうした現象面での様式的な観察は、しばしば比喩によって記述されるが、異なった表現の特質を見る一助になることは確かである。しかし注意することが必要である。いかなる記述にも価値判断が含まれているということである/p350

感情的反応は鑑賞者が意識しているよりはるかに個人的ではない・・・実際には、道徳的なタブーや慣習、趣味、流行、それに他の多数の要因が、現代社会では感情的な反応を方向づけている・・・今日では芸術についての直観力に恵まれた説得力のある著作家や語り手は、芸術の制作者と消費者の間の一種の媒介者として振舞っている。彼は現代人の感情をある方向に導き、ときには象徴を作り出す呪医である・・・鑑賞者が実際に行なっていることは、一般人にはその名が象徴になっているような解説者の解釈を再解釈しているだけだからである/p352

十六世紀の市庁舎の入り口上部の、あるいは下級裁判所のなかの<正義>の擬人像は、その場の性格にふさわしい寓意なのか、そこで行われる活動の比喩なのか、裁判官と陪審員に対する道徳的で教化的な教訓なのか、「正義」という抽象概念の神秘的な特質を明らかにするなかば呪術的な象徴なのか、それとも冷え冷えとした壁をにぎやかにする線と形象と色彩なのだろうか。「機能主義的な」解釈はこの難題を解こうと試み、<正義>の擬人像がこれらの目的すべて果たしていたことを知ることになろう/p359