浜本隆志・柏木治・森貴史編著『ヨーロッパ人相学―顔が語る西洋文化史』(白水社 2008年)
偶然古本屋の店頭で見つけた本です。こんな本が出ているのは知りませんでした。著者陣も知らない人ばかりですが、関西の先生方で、共同研究をまとめたものです。
「顔が語る西洋文化史」の副題どおり、人相、表情、鏡像、仮面、化粧、顔面加工、髭、目線など顔にまつわる事柄を、神話や歴史、絵画、彫刻、映画などを題材に語っていて、ほぼ顔について考えられることは網羅しているのではないでしょうか。
全体的に楽しい読み物になっていますが、複数の執筆者なので、人によってばらつきがあるのがやや残念なところです。断片的にはいろんな本で読んだことが多くありましたが、それを系統だてて記述しているところにこの本の特徴があります。また歴史上の事実を述べるだけでなく、現代社会における問題点につなげて指摘しているところが立派です。
主だった内容を拾いあげてみますと、
動物と人間との間につながりを見いだしたアリストテレスの観相学が、ルネサンスで再びデッラ・ポルタの観相学に蘇えったこと。その特徴は当時流行の人間の四体液の類型化と結びつけたところやリアルな図版の例示にあること。その後、次第に動物や宇宙など外部との類縁関係を探ることから離れて、人間の内部に目を向けた解剖学や生理学に基づく探究が始まったこと。その過程で骨相学などから人種差別的な研究も生まれたこと。近年は表情そのものに着眼するようになってきたこと。(以上第一章、第二章)
グリーンマンは死と再生に関連した植物神の末裔であること。ロマネスク建築が装飾を多く使うようになってグリーンマンが一気に増えたこと。ガーゴイルはゴチック建築になって急斜面になったため雨水を外へ放出する必要から出てきたこと。それは魔除けの意味もあること。角を持った古代の神がキリスト教によりネガティブな存在に貶められ悪魔に変身したこと。光の天使が地上の暗闇に落ちて悪魔になり黒が悪魔の色で定着したこと。(以上第三章)疲れてきたので第四、第五、終章は略。
参考文献にはかなりの本がリストアップされており、教えられるところが多くありました。中でもウィリアム・アンダーソン『グリーン・マン―ヨーロッパ史を生きぬいた森のシンボル』(河出書房)、池上俊一『身体の中世』(筑摩書房)、高山宏『綺想の饗宴』(青土社)、ミシェル・フーコー『言葉と物』(新潮社)、安田喜憲『蛇と十字架』(人文書院)は探求書リストに入れておきたい本。
恒例により、印象に残った文章を下記に。
人間の顔が他の動物の顔と根本的に異なるのは、そこに豊かな表情がともなうからであって、古代から顔こそが魂(霊魂)の顕現する場所として特別な重要性を与えられてきた/p28
日本では、その人物像の特徴を表示する正面向きの顔文化があるのに対して、欧米では横顔がその人物の略歴を公的に特徴づけることが多い/p104
プロティノスによれば、鏡としての人間は美や醜を反映するものであって、魂としての鏡の表面はよく磨かれていなければならないとした。新プラトン主義の影響を受けたスーフィー教のアッタールにとっては、肉体とは鏡の裏で、魂は鏡の表面であるとされる/p202
野生人にとって、まさに自分の像や影は自己の魂と同一であり、そのために自分の像や影に対して、多くのタブーが生じるのである。思えば、悪魔や幽霊には影がないというような俗信も、影が人間の魂であるという信仰に由来する・・・赤道付近のふたつの島の住民たちが真昼に家屋から出ないのは、正午には影がなくなってしまうため/p207
笑いは、静かな微笑を除いて、肖像をつくりあげる要素から排除されてきた・・・20世紀のヴィーナスたちは、前世紀までほとんど見ることのなかった「笑う」という新たな表情を獲得したのである/p290
「役人顔」というのは、防衛機制の働いたときにあらわれるもっとも標準的な顔であり、「組織に縛られた」とは他者の視線にがんじがらめにされている状態を意味する。都市に氾濫する顔は平板で特色のない顔にならざるを得ないのである・・・ブータンの人々の顔は、モデルがないかのようにみなちがうのに対し、都市化した社会では平均化へのある強い力が働いているように見える/p293
人と対面したとき、われわれは顔の表情を相手に投げかけることでその人との関係を築く/p294