球体に関する本二冊

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高知尾仁『球体遊戯』(同文館 1991年)
高橋睦郎『球体の神話学』(河出書房新社 1991年)


 球体という同じテーマについて書かれていますが、内容はまったく別のものです。『球体遊戯』は、西欧の15~16世紀の寓意画を素材にして、ギリシア哲学からキリスト教までの世界観について述べており、関心が限定された学術なもの。逆に、『球体の神話学』は、パチンコの話に始まり、卵の話から動物譚となり、神話の話、最後は下(しも)の話と、丸いものを巡って気の赴くままに書かれた随筆です。片方は専門的すぎて分かりにくいし、もう一方は面白いけれど蘊蓄を聞かされただけのような気もします。同じ年に出版されているのも不思議な気がしますが。


 高知尾仁という人は知りませんでしたが、昔、古本屋で本を手に取って見て、たくさんの図版があり面白そうなので買っておいた本。とてもよく勉強されていて、引用文献の注だけで43ページもあります。絵の説明が多いのですが、その絵が図示されていないものが多く、分かりにくい。

 非現実的な図像に強い愛着をもつ私ですが、寓意画というのはあまり好きではありません。謎めいた雰囲気があっても、その寓意が解けてしまえば、魅力は一気に褪せてしまいます。わざわざ絵にする必要もなく、文字で表したほうがいいと思います。しかし、たとえ文字に表わしたところで、例えばこの本に出てくるように、ミューズや死神、運命の女神、七学問、七技術ならまだしも、欲望、高慢、虚栄、欺瞞、とか良識、忍耐、美徳、また愛、正義、真実となると、抽象的で、教訓臭がつきまとっているのはいただけません。

 悪いことばかり書いてしまいました。が、いくつか印象深い指摘がありましたので、自分なりに解釈して書いておきます。
①球形世界への注目は、大航海時代という時代背景と切りはなせるものではなく、当時の人文主義者の前には球形の地の世界が立ち現われ、東方の神秘的知との邂逅に期待がかかっていたこと。

ギリシア時代にすでに、神の永遠性全一性への考察から、神が球体をとるという考えがあり、天の神の秩序が天体の学を通じて地上にもたらされ、星々の音楽を模倣することで、世界の調和が生起すると考えられていた。

③一方、女性のもつ受胎や産み出す力が球体と結びつけられるということがあり、そのひとつが、マリア、イシス、ケレス、キュベレという母神の系列である。マリアの場合、三博士の贈りもののひとつが球体として描かれる場合がある。もうひとつは魔女・魔術の伝承である。神の球体が真実、完全の形であり、至高至福の調和の球体とするなら、魔術の球体はその歪められた模像であり、不和と堕落の球体と言えよう。

④16世紀から17世紀にかけて流行した『ケベトスの教示』という絵画群があり、そこでは、地球世界を二分するものとして美徳と悪徳が対比され、それぞれに球体が描かれている。ここで注意すべきことは、知的な誘惑が悪徳として捉えられていることであろう。快楽の誘惑に悔悟の力で勝ったとしても、次に知的誘惑が待ちかまえているという。

⑤球体の表象が示す含意には、単なる地球や天球以外に、帝国の権威を示すインペリアル・グローブがあり、また至高至福の全き球形である神性、強さを示す堅忍不抜の精神、そしてそれらとまったく反対に、どこへ転がりゆくか分からない不安定さ・不確かさ、シャボン玉に代表される束の間のはかなさ・虚無など、がある。                

 面白い表象がありました。月にレンズを向けて自らの顔に光を集めている男、天使をモデルにしつつ悪魔を描いてしまう画家(p228)、また王が馬に乗った従者に従い、子供が学者に教え、盲人が人を導き、動物が人間を使い、魚が木にのぼり鳥を釣り、患者が医者を診察し、幼児が親を保育するといった、逆転された世界(p152)。


 『球体の神話学』は、「王様手帳」という雑誌に連載したのをまとめたものです。調べてみると、どうやらパチンコ業界が発行している広報誌のようです。それでパチンコから話が始まっているのかと納得がいきました。著者は、錬金術、東西の神話・宗教、江戸時代の好色本、農学、生物学、ヨーロッパ精神史、日本古典、日本古代史、天文学民俗学に通じていて、いろんな話題が次から次へと出てきます。

 著者が挙げている丸いものを出てきた順番に列挙してみると、パチンコ球、果実(葡萄、桃、柘榴)、豆、穀類、花の莟、球根、卵、宇宙卵、蛇のとぐろ、龍が口に含んでいる珠、真珠、フンコロガシの糞玉、太陽、月、星、寺院のドーム、天球儀、地球儀、頭蓋、眼球、睾丸、子宮、乳房、お尻、球戯のボール、鞠。

 いくつか面白い指摘がありました。
旧約聖書『創世記』の記者は、「生命の樹」と「善悪を知の樹」の二本の樹をはじめに提示しておいて、そのあとでは「善悪を知の樹」についてしか言及がなく、「生命の樹」については触れられていないこと(p13)。

天文学者占星術師とはずいぶんいかがわしい、などというのは、自分で発見したわけでもない科学情報の恩恵を蒙っているにすぎない現代人の傲慢(p71)。

③人間の肉体の80パーセントは水だとはよくいわれるが、その水は淡水よりも海水に近い。人間ひとりひとりがまた海ともいえる。ガガーリンが・・・「地球は青い」と感じたとき、彼は無意識に自分の中の海を、母胎の海を、そして、原始の海をそこに見たのだろう(p126)。

④マレブランシュというカトリック神父によって、きわめて神話的な人間卵生説が唱えられた・・・人間入子(いれこ)卵生説とも呼ぶべきもの・・・人間が卵子から生まれるのは、卵子の中にすでに人間のミニチュアがあるからで、そのミニチュアの中には卵のミニチュアがある。卵のミニチュアの中にはさらに人間のミニチュアがあり・・・行くところまで行って、世界終末の時の最後の人間までつづく。これを逆に過去に遡れば最初の人間アダムとエヴァエヴァに辿り着く。「世界終末までに生まれる人類および動物のすべては世界創造の時にすでに作られていたのだ」(p191)。


 最後に、詩人らしいフレーズがあちこちにありましたので書き留めておきます。

なんという驚異だったろう、一度(親鳥から)卵が生まれ、つづいてもう一度卵から雛鳥が生まれるということは(p37)。

魂を鳥のかたちで考えた例は世界じゅうにある。古代エジプトの墳墓の壁画や木棺の彩絵には、死者の開いた口から翔びたっていく人の顔した鳥がしばしば描かれる(p40)。

蛇・・・卵という小さいながら完璧な一箇の球体宇宙の一箇所が破れ、いっぽんの線が外に出ていくが、やがてその線は直線からゆるやかに曲線に移行し、とぐろという名の円形をかたちづくる(p46)。

メドゥーサ・・・もともとペラスギ人たちのあいだで崇拝を集めていた大地母神・・・その顔を見ると立ちどころに石になるというのも、見ることも触れることもかなわぬ神聖さの神話的表現だった(p47)。

新月は光の始まりであると同時に、闇の極まりでもある(p86)。