:バルトルシャイティス著作集4『鏡』

                                  
ユルギス・バルトルシャイティス谷川渥訳『鏡―科学的伝説についての試論、啓示・SF・まやかし』(国書刊行会 1994年)


 三巻目の『イシス探究』をすっ飛ばして、『アナモルフォーズ』にテーマが近いと思われる『鏡』から先に読んでみました。訳者の谷川渥、栞に文章を寄せた多田智満子の両氏がともにあきれ果てているように、古代から中世の史料を渉猟しての、おびただしい引用、膨大な学識が開陳されています。

 『鏡』は最晩年の書だけあってかとくにその傾向が顕著で、老人らしいくどさも垣間見えます。正直「アルキメデスの鏡」あたりは例証があまりにも続くので疲れました。昔の科学研究事例を延々と記述し続けることに何の意味があるのかと思ってしまったぐらいです。まさに淫しているとしか言いようがありません。

 副題の「科学的伝説」という言葉が象徴しているように、例えば「アレクサンドレイアの燈台」の話では、古代の科学的現象が、時代とともに尾ひれがついて一種の伝説のように歪められていく経緯を克明に追っています。その途中で、何が正しいのか一瞬分からなくなってしまいます。

 「伝説は、二千年もの間それを養ってきた超自然的、幻想的背景に恐るべき力で結びつくひとつの現実によって達成される。科学と神話の和解は、二十世紀半ばに成立した(p442)」と書かれているように、最後は、科学の力によって神話に追いつくことが可能となりました。伝説化を促す「気まぐれな幻想やばかげた推論が・・・すべてが錯覚であるという鏡の性質に助けられて(p465)」いるという指摘にも面白いものがあります。


 バルトルシャイティスのこれまでの著作は正面から詩情を露わにするのではなく、澁澤龍彦と同様、偏倚な器物や事象自体が詩情を醸し出しているというのが魅力だと思いますが、今回は一歩踏み込んで若干バシュラールを思わせるような詩への言及があったりします。とくに「神の鏡」の章は思弁的で詩的な美しい文章が続きます。

 例えば「みずからを追い、みずからに答え、みずからを反射し、みずからを反響し、無限の鏡に戦慄する・・・ヴァレリーの鏡人(p136)」の素晴らしいイメージ。しかし多田智満子さんが栞の文章で言及している「因陀羅網」の鏡宇宙はさらにその上を行く凄いイメージです。

 いずれにせよ本業の美術以外の余技ともいうべき分野でこれだけの本をものしているのですから、バルトルシャイティスの凄さに驚愕するばかりです。


 まったく私的な体験ですが、「この鏡は銅の燈台の上に置かれていた。そこにはあらゆる方角からエジプトへ向かってくるあらゆる旅行者たちが見えた(p219)」という文章を読んだ途端、本当に古代のその時代に私が居て、舟に乗った異民族の人たちが船の上で動いているさまが、そよぐ風やざわめきとともに、眼前に彷彿としてきて、無気味な気がしました。


印象に残った文章。

自己自身についての認識が知恵の根底にある。古代から人間は自分自身の顔を観察しようとしてきた/p11

鏡は、しかし宇宙を忠実に映す一方でまた宇宙の変貌の道具でもある。・・・そこでは現実は復元されずに断片化し、そしてそれらの断片からもうひとつの世界がつくり出される。平坦なひとつの面の上では対象とよく似た姿を与える反射の同じ法則が、別様に並べられた多数の湾曲した鏡のなかにまやかしの夢幻的なヴィジョンを生み出すのである/p18

月・・・その形が多様で不安定であることが、わが地球に最も近いこの天体の本性のなんたるかを知ろうとせずにはいられない観察者の想像力を苦しめてきた。・・・ビアンカーニは、月を教会の鐘楼の上に据えられた、太陽光を反射する青銅の球体にたとえている/p60

→これは炯眼

この発光は神の栄光の反映にほかならない。・・・深いしるしが預言者の顔に刻まれていたわけだが、その顔を神は自分の光を映す鏡としたのである/p100

神はその姿を鏡のうちに現わすが、直接にはその身体も魂も見ることはできない/p104

鏡それ自体が神の象徴なのだ/p118

魂は鏡のように壊れるのだ/p128

壮麗な宮殿、無限の空間も、このガラス玉のなかに閉じこめることができる。それらは広大であると同時に微小な事物で、そこではごく小さなものが巨大なものを表現するのである(p387)・・・一定量の水銀を取って、それを露天に置けば、地平線全体がそのあらゆる部分とあらゆる事物とともにはっきりと見える/p393

水盤を水で満たし、そこに鏡を入れ、太陽に向ける。すると底からも縁からも太陽は外に光を放ちながら、それ自身が衰えることはない。太陽の光のなかの鏡の反映は、太陽のなかにある。とはいえ、太陽も鏡も、それぞれあるがままにとどまる。神についても同様である。神は魂のなかに見出される。・・・とはいえ、神は魂のなかに在(いま)すのではない。魂の影が神のうちにあるのだ。神も魂も、しかしそれぞれあるがままにとどまる(エックハルト)/p394

鏡に映るひとつの顔は、すべての断片のなかでもやはり同じ完全な顔である。それは、同時にパンのなかにも葡萄酒のなかにも現前するキリストのようなものである/p417

プルタルコスによれば、誰もあえてまともに見つめようとはしない太陽こそが、神自身が天に置いた反射装置であるということになる/p437

二律背反的な二つの定数―放埓と規則―が、その詩想と特異性とを規定している/p467