野上豐一郎『翻譯論』


野上豐一郎『翻譯論―翻譯の理論と實際』(岩波書店 1938年)


 翻訳史でもなく、翻訳作品の解説でもなく、翻訳という行為そのものについて、原理的に考究した本。英文学、能楽の研究者の立場から、具体例を引用しながら、論を展開しています。常識的な発想から専門的な知見まで、論理だてて考え、分かりやすく説明しています。少々お高く留まった感じがするのは、戦前の学者だからしょうがないでしょうか。

 中心となる考えは次のようなものです。
翻訳には二つの態度があり、受容的と適合的として捉えることができる。受容的態度は、原作者が原作を作り出したのと同じ心境に立って、翻訳者の言語によって原作と同等のものを作り出そうとする。まず完全な理解が行なわれ忠実な表現がそれに続く。これに反して適合的態度は、原作についての理解をいかにして社会の読者に適合させようかと考え、すべての努力は表現に集中される。適合的翻訳は啓蒙的であり、逍遥・二葉亭・鴎外に代表される。受容的翻訳は学究的であり、次の世代の年少翻訳者に多く見られる。最上の翻訳者とは、この二つの態度を併せ持ち、読者を顧慮するとともに、原作者に対しては飽くまで忠実でなければならない。

 いくつかなるほどと思わせられる部分もありました。
①翻訳の批判にも二通りあり、語法的に正確であるかに重きを置くのは学者に多く、文学的に表現されているかに重きを置くのは一般鑑賞者に多い。→これは上記の二つの態度を読む側から考えたものだろう。

②詩を翻訳する事例を示すなかで、「the eye of heaven天の目」とか「the burning eyes of heaven天の燃える目」という表現が太陽のことを意味するのだからといって、勝手に変えて、「太陽」とか「日」とか言ってしまっては詩人の想像を無視したことになる。同様に、「to be, or not to be」は「このままであるべきか、あるべきでないか」と訳すべきで、「生きながらえていようか」と訳してしまってはいけない。

謡曲からそのリズムとリズムの根源を成すものを除外すれば、それは謡曲ではなくなる。また、原作が一つの詩である場合は、翻訳されたものも一つの詩か、少なくとも詩的なものでなければならない。

④会話を日本語に翻訳する場合、まず準備しておかなければならないのは、誰が誰に向かって話しかけているか、男同士か、女同士か、あるいは一方が男で他方が女か、また双方の年齢、社会的地位はどうか、その時の双方の心理状態はどうかを知ることである。


 とんでもない、と思うような意見もありました。
①翻訳する際、「文学史的観点から見て、その作品がいかなる存在価値を要求すべきものであるかを明白に認識していなければならない。そうでなければ、その翻訳は、たとえいかほど巧妙に仕上げられてあっても、われわれの文化の建設の上に何等の重大な目的を持たないものとなり、結局、単なる思いつき・気まぐれ・もしくば営利的出版者の手先に使われての憐れむべき小づかいとり以上の何ものでもないであろう」(p92)→高邁な学者の庶民蔑視発言

②「民族的知性の改造からしてかからなければ、表現の直接移植を試みようとしても無駄だと思う」(p233)→どうしてそこまでして西洋の考え方に染まらないといけないのか