島田謹二『翻譯文學』


島田謹二『翻譯文學』(至文堂 1951年)


 「日本文學教養講座」というシリーズのうちの一冊。このシリーズでは、ほかに『神話傳説説話文學』というのを持っています。島田謹二の本はいろいろ持っていますが、読んだのは『ポーとボードレール』だけ。文章が論文調でなく、語りかけるような調子なので、とても読みやすい。講義を聞いているような感じです。

 まず大きく目についたのは、開国後の日本が西洋の文化を取り入れようと志して、それを徐々に身につけてやがて独り立ちしようかというところまでを、大局的に時系列に追っていることです。明治34年生まれで、同時代を生きた人ならではの感想が色濃く表われています。現代のわれわれはややもすると、当時のせっぱつまった状況を忘れがちですが、次のような流れになっています。

 明治以降、ヨーロッパの文芸的特性をわが物にしようと、もがきにもがいた苦闘の歴史がある。若い学者らが何気に集まって作った『新体詩抄』が日本現代詩の第一頁を切り開き、ドイツ留学の森鴎外は新しい日本文学を打ち立てようとして西洋の審美学をもたらし、ホフマンなど19世紀近代小説の典型を紹介した。大正末年の円本時代を端緒として、昭和初年の岩波文庫が全世界にわたる翻訳文学を網羅してまた一つの新しい時代が生まれた。西洋は、もはや明治初期のように単に知識だけのものではなく、情意にひびき全人格の反応を伴って同感される存在になっていったのである。

 それぞれの訳業が後世に与えた影響についても、当時の日本の文学の潮流や個々の作品に対する幅広い目配りから次のように指摘しています。
①一時日本の小説は二葉亭をなかだちにするツルゲーネフの影響に圧倒されてしまった。国木田独歩の『武蔵野』、徳富蘆花の『自然と人生』、田山花袋の諸小品、小栗風葉の『青春』などは、その流れにさおさして日本人らしい筆法でそれぞれツルゲーネフをなぞったものである。

②『於母影』の影響としては、「生」の神秘に対するあくがれや苦悶を歌うロマンチックな厭世観が、北村透谷や岩野泡鳴などの「苦悶詩」を生んだこと、また韻訳の試みが薄田泣菫や生田春月にも若干受け継がれたこと。後世へ及ぼした形態的意義としては、七五の優美調、婉雅調、八六・八七の哀婉調などの定形律が『若菜集』など日本新詩のモデルとなったこと、一行二十音の試みが後の自由律の先駆けとなったこと、また平明にして雅趣ある用語法が明治20年代30年代の新詩壇全般に広まったこと。

③『即興詩人』の翻訳が与えた影響が見られる作品としては、泉鏡花の『照葉狂言』、樋口一葉の『たけくらべ』、島崎藤村『一葉舟』に収められた「晩春の別離」、薄田泣菫「公孫樹下にたちて」、上田敏の美文「みじか夜」、「よひやみ」。与えた影響の実体としては、一つはエクゾチシズム(異国憧慕)を感じさせる山水文学の妙味で、下地としては歌枕や西行・宗祇・芭蕉らの紀行文学があり、杢太郎・白秋らの異国趣味として開花したこと。二つ目は、詩人や女優などかつては重要視されなかった身分が芸術家として認められるようになったこと。

上田敏の『海潮音』などの訳詩については、フランス象徴詩を日本に紹介し、日本近代詩に大きな影響を与えたとしているが、影響関係については言及が少なく、もっぱら上田敏の訳詩の彫琢ぶりについて、原詩と対照させながら、その推敲の課程を明らかにしていた。

⑤明治末の日本文壇に大きな影響を与えた作家として、ゾラ(山田美妙、尾崎紅葉小杉天外田山花袋島崎藤村)、ニーチェ高山樗牛、登張竹風)、トルストイ内田魯庵武者小路実篤志賀直哉倉田百三)、イプセン島村抱月)がいる。こうした多国籍作家の登場により英文学全盛期は打ち壊され、また自然主義的潮流によって、鴎外などの伝えたロマンチシズムの哀れ深い声調は前代の甘い生き方としてあざけられるようになった。

⑥『月下の一群』に集められたコクトーアポリネール、マックス・ジャコブ、シュペルヴィルなどフランス現代詩の清新な訳出は、日本現代詩の一源流となり、またポール・モーランの数々の翻訳は、いわゆる「新感覚派」を開く重要な一示唆となった。


 その他、個々の指摘として面白かったのは、
①鴎外の訳しぶりは、読者の理解力に合わせて、原著にない言葉を挟んだり、簡潔にするためあるいは余韻を深めるために、原文を平然と削ったりしているが、その傾向が後年になるにしたがって激しくなり、原著者のことはすっかり忘れて自分の文章を書いていること。

②鴎外にも誤読があった。『即興詩人』の「花祭」の章で、「castello dell’ovo」を「カステロ・デ・ロヲオ」と訳し、「卵もて製したる菓子」と註しているが、これはナポリの有名な古城の名前だという。

上田敏は、父方母方とも学問芸術の家系で、祖父も父も徳川時代に外交の大官に従ってパリやペテルスブルグに行ったほどで、本人も少年時代から秀才の名を馳せていた。東京大学英文科ではラフカディオ・ハーンに学んだが、英文で書いた彼の「ウィリアム・コリンズ論」を見たラフカディオ・ハーンが「1万人中ただ一名の学生」の作と激賞したらしい。