:世界紀行文學全集『フランスⅠ』

世界紀行文學全集『フランスⅠ』(修道社 1972年)


 長年本棚で温めている本のなかで、三段組400頁以上もある重圧感から、もう死ぬまで読まないだろうと思っていた本を取りだして読んでみました。世界紀行文學全集は6冊しか持ってませんが、どれも読んでおりません。

 『フランスⅠ』を読み終わっていま続いて『フランスⅡ』を読んでいるところです。この二冊で、総勢96名の文章が収められていて、明治から昭和にかけてフランスへ行った日本人の有名どころはだいたい収められていると思います。小杉放庵、岡本綺堂柳田国男斉藤茂吉志賀直哉土岐善麿など、こんな人がフランスに行ってたかというような人もいます。

 執筆者の7割がたが美術関係、残りは作家、あと人文系学者少々で、実業家とか技術者、自然科学者なども大勢フランスには行っていたと思いますが、ほとんど取り上げられていません。当時の洋画家たちがフランスに行かなければ箔がつかないとばかりにみんな押し寄せている様がうかがえます。文学者も絵を見に行っているケースが多い。それだけ当時はフランスの美術が世界を席巻していたわけですね。

 地域的にはやはりパリの記事が多いですが、ブルターニュ、ロワール、南仏など、地方の特色を克明に綴った文章もあり、大変参考になります。もう一つの特徴は、各作品が時代順に並べられていることで、記事がそれぞれ滞在していた時代を反映しているのが印象的。1920年代のモンパルナスの賑わいを描いたもの、第一次世界大戦で大きく傷ついたフランスの様子、第二次世界大戦への突入の予感に怯える日々、サルトルブームなど。

 全体のヴォリュームもさることながら、永井荷風島崎藤村小宮豊隆桑原武夫中村光夫などは、各篇の分量も多くて、個別に単行本を読んでいるような気分にさえなってきました。


 ここから『フランスⅠ』について。とりわけ面白く読んだのは、永井荷風『西遊日誌抄』『ふらんす物語』よりの抜粋、吉江喬松『仏蘭西印象記』よりの抜粋、矢代幸雄「太陽を慕う者」の三つ。荷風の文章はもう何度も読んだことのあるものでしたが、群を抜いていて喚起力があり、冒頭のル・アーヴルの港に船が着く場面では、飛行機とまた一味違う情緒のある情景にうっとりしてしまいました。吉江喬松も一度読んだ文章ですが、フランス文人の詩や文章に言及しながら、旅のできごとや舞台の様子を文学者らしい豊かな文章で綴っていて、他を圧倒していました。矢代幸雄の美文調は昔『ヴィナスの誕生』でも感じましたが、やはり凄い。

 その次に印象深かったのは、芝居の人かと思っていたら私の好きな装飾文様についてかなり専門的な考察が繰り広げられていたので驚いた島村抱月「ルイ王家の夢の跡」、謹厳なイメージの詩人に艶っぽい意外な一面を発見した高村光太郎珈琲店より」、夫鉄幹にくらべ段違いの面白い文章を書く与謝野晶子「巴里の旅窓より」、古典学の重要性を力説する木下杢太郎「エンゲン湖畔」、この本の中でいちばん破天荒な印象のあった大杉栄「パリの便所」「牢屋の歌」「入獄から追放まで」、とぼけた味を出している辰野隆仏蘭西人」。

 島崎藤村の文も第一次世界大戦の悲惨な町の様子がうかがえて貴重ですが、文章としては彼の整然とした文章よりは、河上肇「巴里最初の印象」などの方が面白い。また全般的に画家の文章(日記)は事実を書き連ねているだけで、深みに欠ける印象がありました。

 紀行文學全集と銘打っている割には、専門分野の話題に特化した文章が目につきました。岩村忍のバルビゾンの記録、島村抱月の装飾論、小宮豊隆の「モスクワ芸術座」の演劇論、大杉栄無政府主義者の取締りなど。とくに小宮豊隆のは紀行文から大きく逸れているうえに、論じているのはロシアの演劇についてなので、編集上のミスとしか思いようがありません。

 新しく知り得たのは、意外な人同士が異国で会っていること。巖谷小波中村不折(p19)、上田敏永井荷風(p93)、姉崎嘲風と土井晩翠(p23)、与謝野晶子・鉄幹とアンリ・ド・レニエ(p149)、島崎藤村がイザイのヴァイオリンを聴いていること(p173)、生田葵山までパリにやってきていること(p186)など。ほか巖谷小波が玉突きをしているのは面白い(p19)。日本人がよく泊まったホテルに、「グランドテル・デュ・ルウブウル」(戸川秋骨上田敏)「オテル・アンテルナショナアル」(成瀬無極、登張竹風)、「レカミエ」(木下杢太郎、石井柏亭)、「オテル・グランズオンム」(児島虎次郎)、「オテル・ジャン・ダルク」(内藤濯、山田珠樹・森茉莉)があったこと。また当時パリには日本料理を食べさせる店として、巴亭、ときわ屋、日本倶楽部などがあり、日本の文人、画家たちが集っていたこと。
 
 「とちの木の葉ぶりが何ともいへなくなつかしく空の色の美しい事到底日本の比ではありません・・・雲の形、西の空の色はほんとうに絵にあるやうです」(上田敏、p94)などといった文章を読めば、フランスに行きたい気持ちがますます募ってきました。